歴史の浪漫街道  日本各地の神輿。 白装束の揉み手24名と音頭とり2人が五尺六寸の大神輿を行徳担ぎでご披露渡御する行徳五ヶ町祭り
伝承と伝統の民族文化遺産

祭りだ!神輿だ! 日本各地の神輿


    行徳五ヶ町祭り 平成26年10月 (3年毎)

本行徳3丁目八幡神社境内で「さし」。'14.10.12.
本行徳3丁目鎮守の八幡神社境内での豊受神明宮の揉み手24人の息の合ったさしのご披露

宮神輿大屋根。'14.10.12. 霊峰富士の清め塩。'14.10.12.   行徳五ヶ町祭り
'14.10.12.(日曜)
神事: 午前3時〜
渡御: 6時〜18時
本行徳一丁目から四丁目と本塩の5ケ町を渡御する

豊受神社神明宮
   本行徳一丁目
豊受神社神明宮の宮神輿大屋根 本行徳八幡神社鳥居下の霊峰富士の清め塩

午前3時頃の触れ太鼓で各町役員が本行徳1丁目の豊受神社神明宮に集合して神事が執り行われ、 神事を終え神魂を入れられた神輿は、下新宿稲荷神社に渡御します。
そして、午前6時頃から本行徳1丁目、2丁目、3丁目、4丁目、本塩の順に神輿の渡御を行なう。 神輿は台座が5尺6寸(170cm)の大型神輿で、二天棒で担ぎ、 白装束の揉み手が24人、音頭とりが2人 合計26人で要所要所で揉みながら渡御していきます。
 

台座五尺七寸が行徳街道を渡御。'14.10.12.
行徳街道の本行徳3丁目の澤木酒店前を多くの白装束の揉み手達に囲まれて次のご披露場所へ

行徳街道を循環バス2台が通過。'14.10.12. 行徳揉みのの為に街道中央に出る。'14.10.12.
行徳街道を循環バス2台が遠慮がちに通り過ぎる 道路中央に出て氏子役員から行徳揉みの開始の指示

台座五尺七寸の地摺り。'14.10.12.
行徳街道の本行徳三丁目自治会前での台座五尺六寸の息の合った地摺り

神輿の揉み方は行徳独特のもので以下の所作を行う。
(1)地ずりは神輿を腰より低く下げての状態で回転する。
(2)さしは片手で神輿を高くさし上げての状態で2回転する。
(3)放りうけは神輿を頭よりも高く放り上げ、受け止めるまでに二拍手する。
 

行徳揉みの放り上げ。'14.10.12.
本行徳三丁目自治会前で前後の担ぎ棒担ぎ手の息がチョットずれた行徳揉みの放り上げ

八幡神社鳥居脇の台座4尺7寸はレンタル神輿。'14.10.12. 八幡神社の境内。'14.10.12.
本行徳三丁目自治会の八幡神社へ神輿下げて入り込む 八幡神社の境内で地摺りのご披露も砂地で踏ん張りも滑る

本行徳3丁目の八幡神社は天正元年(1573)鎌倉の八幡神社を勧請して建てたのが始まりと言われる。 また本行徳1丁目の豊受神社神明宮は戦国時代に行徳さまと崇められた山伏金海法印が伊勢神宮を勧請して建てられた。  

差し上げ。'14.10.12.
本行徳三丁目町会の八幡神社境内での息の合った担ぎ手24名の差し上げ

本行徳4丁目〜本塩までは、 和服姿の男性陣が背中に黒い半円状の板をぶら下げている世話人が、 入り組んだ神輿みちを通って本塩まで神輿を担ぎ転送していきます。  

行徳の塩: 行徳の製塩は古くから行われて、戦国時代には後北条氏に年貢として納められていたといわれる。 家康も江戸城における籠城の際の塩を確保するために、行徳を御手浜(塩田)として塩業を保護した。 日清戦争以後には安価な台湾産塩の流入が始まり、行徳の塩は昭和初期にはほとんどが廃絶となった。
行徳街道沿い本行徳4丁目の塩問屋の加藤邸などが当時の製塩業の繁栄を偲ばせる。
 


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