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町家建築の歴史的遺産 |
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蔵店舗・老舗店舗/城北。浅草・上野エリア |
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水戸街道沿いにある東向島の天麩羅「魚大」創業は昭和5年(1930)。
今も多くの料亭が残る花柳界の本所浅草と密集市街地の下町向島が隣接する場所です。
江戸時代は長閑な田園地帯であったが
関東大震災後に罹災者が移り住み味のある下町になったのです。
東京都墨田区東向島3丁目交差点角。 |
江戸前の味。天麩羅。天明年間(1781〜1788)に江戸の町に登場した。
江戸湾で獲れる豊富で安い海老・烏賊・
穴子などに衣をつけ胡麻油で香ばしく揚げた天麩羅を安いため使い小僧までが屋台で立ち食いをしていた。
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遊郭の出入り口にあたるためか吉原大門交差点にある江戸の郷土料理の代表である天麩羅の「伊勢屋」。
重厚な瓦葺の老舗店舗の伊勢屋は創業明治22年(1890)。
隣接している明治文明開化の食であるすき焼きならぬ桜鍋の「中江」。
隣接の中江は創業明治38年(1906)。東京都台東区日本堤1丁目8。
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桜肉は馬肉の俗称であり独特のくせをもつ。
暗褐色で脂肪分が少なくタンパク質とグリコーゲンに富む。 |
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お江戸の下町なのです。江戸時代の町割りの間口のままの御膳の「和泉屋」(創業は不明です)
しかしドッシリと瓦で葺いた甍をご覧下さい。周りを囲むような高層マンションに自己主張をしています。
東京都台東区根岸3丁目下谷金杉通りの土蔵店舗。 |
デ-ンと構えた老舗店舗の「駒形どぜう」。
この建物の内部は地下一階のカウンター席から屋根裏の個室まである3階建てなのです。
関東大震災、第二次世界大戦では店舗全焼という被害を受け,現在の建物は戦後の再建です。
どじょう鍋は江戸庶民の味でした。東京都台東区駒形1-7。創業は享和元年(1801)。 |
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「どぜう」:初代越後屋助七は武蔵国(現埼玉県北葛飾郡)の出身。
仮名遣いでは「どじょう」。もともとは「どぢやう」もしくは「どじやう」と書くのが正しい表記です。
文化3年(1806)の江戸の大火によって店が類焼した際に、四文字では縁起が悪いと、
奇数文字の「どぜう」と書くようになり以降大人気の暖簾となる。 |
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江戸前の味。東京の郷土食。元禄時代(1716)以降の享保時代にはお江戸の人口が100万人の世界最大都市と
大消費都市となった時代に作られた。当時は隅田川はじめ堀や川が多く、今とは違いうなぎ、どじょうなどが多く獲れた。
握りずし(当時はタネに味付け)、うなぎ蒲焼(武士の切腹嫌い頭落とし背開き)、
天麩羅、どぜょう鍋などである。 |
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東京都台東区浅草6丁目の太鼓、神輿の老舗店舗の風格を醸し出す「宮本卯之助店」。
さすがに歴史を背負った老舗であり建物の維持管理は完璧です。
創業は文久元年(1861)です。 |
お江戸下町の酒屋「水上酒本店」。
東京都台東区入谷1丁目の交差点前。
木造建築では珍しい3階建であるが屋根に掲げられた看板は残念ながら判読できない。
創業は明治33年(1900)建築は昭和4年(1929)。 |
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こちらも下町にある米や金沢米店。東京都台東区入谷1-24。
創業は明治末期ごろ(1910前後)です。 |
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この地区は職人が多く、また親方宅に住み込み職人も多く半径250mに20数軒もの米屋が点在していた。
お江戸東京の人口密度の高さを米屋の数が証明している。 |
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谷中の「伊勢五本店」東京都台東区谷中4-2。
店頭の濃紺と山吹色の日除け暖簾が
印象的な酒屋の老舗店舗です。創業は古く宝永3年(1703)で
建築は昭和初期である。 |
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東京都台東区谷中6-1。豆大福で有名な「岡埜榮泉」です。創業は約80年前で
近くに200年の歴史ある銭湯があります。 |
東京都台東区上野桜木2-10。旧吉田屋酒店。建築は明治43年(1910)
台東区谷中6丁目にあったのを昭和62年にこの場所に移築。
出入り口は横長の板戸を上下で開閉する揚戸を設け間口を広くして
商家特有の出桁造りで長い庇を支えいる。
昭和10年(1935)に一部改築。台東区の有形民俗文化財。 |
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谷中は大正大震災や第2次世界大戦の戦火で大きな被害を受けなかった
数少ない地域であり現在も寺院や古い建物が数多く残っている。
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くし揚げの「はん亭」。登録有形文化財。
木造3階建て建物は明治40年(1907)建築
また大正7年建築の元下駄屋、爪皮屋の記録もある。
開業は最近の1980年でまる25年になる。
経営者はすだれにも気を使って創業100年の
「田中すだれ」の国産の蒲を使用している。
左側の写真は表通りに面してる斬新なデザインに
なっているが本来建物の裏側だったのです。
文京区根津2丁目12。撮影・05.09.08.
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