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町家建築の歴史的遺産 |
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蔵店舗・老舗店舗/城央。日本橋・銀座エリア |
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神田の老舗店舗の甘味処「竹むら」創業は昭和5年(1930)。
戦災を免れた数少ない木造建築の均整とれた心和む建物なのです。
是非後世に残したいものです。東京の歴史的建物に指定されている。
東京都千代田区神田須田町1丁目19。撮影・05.09.08. |
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神田の老舗店舗のあんこう専門店「いせ源」。
創業は古く天保元年(1830)。東京唯一のあんこう専門店。
当初はどじょう鍋専門であったが大正時代に
味は「東のあんこう、西のふぐ」と称されるあんこう鍋専門店に変更する。
店舗は関東大震災後の昭和5年の建物で東京都歴史的建造物に指定されている。
東京都千代田区神田須田町1丁目11。撮影・05.09.08. |
西新橋交差点の風情感じる蕎麦屋の木造二階建ての「大阪屋虎ノ門砂場本店」。創業は明治2年(1869)。
建築は蕎麦屋建築棟梁の手による大正時代の建物で、
細かな補修を重ね梁を鉄骨で補強する大改修も施され店舗内には畳床が置かれている。
現在の店主は5代目です。 東京都千代田区虎ノ門1-10。撮影・05.12.03. |
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大正のそば店舗は往時の面影を保存。(朝日新聞 H19年6月9日報道)
現6代目店主となった長男(37)がバブル期の15階建てビル化計画を廃し、
往時の風情を残しつつ耐震補強を行い先代の心意気を受継ぎたいと決断。
建物全体をジャッキで持ち上げる工法で
5月に着工し外装はほとんど手を加えず鉄骨の梁をなくし建物全体の耐震補強を施し
建築当時に復元で今年12月に完成予定。 |
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神田の老舗店舗のそば処「まつや」。創業は明治17年(1884)。
こじんまりとしているが下町情緒あふれた佇まいです。
珍しくも出入り口が二ヶ所あるのです。
千代田区神田須田町1丁目13。 |
江戸前の味。 蕎麦。寛永年間(1624〜1644)朝鮮からつなぎに小麦粉を使うことが伝わりそば切り始まる。
寛文元年(1661)そば粉8・小麦粉2の割合の「二八そば」が作られて値段が安く江戸っ子に受け入れられた。
当時のツユは濃い辛口でそばの先の1/3をツユにつけて噛まずに飲み込む食べ方であった。
老舗の蕎麦屋は更科・藪・東家・一茶庵・そして砂場(発祥は享保15年(1730)
の大阪市西区新町遊郭)が有名。
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昔は薪炭店であった酒処「秩父錦」
2階の戸袋と格子戸そして瓦葺が重厚な板倉店舗。店名は蔵元直送の酒を出す事から名付けられた。
銀座のど真ん中のビルに囲まれながらも立派に自己主張している。創業は不明。
東京都中央区銀座2丁目13。 |
中央区新富町2丁目10。割烹の「松し満」正面玄関は築200年以上の建物で老舗店舗を醸し出している。
左側は本館、白土塀を潜ると正面玄関。右側は同じく白土塀に囲まれた離れの2階建て座敷。
明治座、新富座の人気役者が2階の座敷で日々艶やかな酒宴を開いた。創業は寛政時代(1789〜1801)か。 |
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明治座。明治6年(1873)創立で再三火災に遭う。江戸三座の1つである新富座。万治3年(1660)創立。
当初は森田座、安政5年(1858)守田座、明治5年(1872)新富座と改称する。 |
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中央区日本橋室町一丁目の中央通りの日本橋たもとに
ある元蕎麦屋であった現在鰹節店の「大和屋」。
写真は表通りに面した店舗である表店と
現在も当時の面影を残す店舗の裏長屋。創業は不明です。 |
表店(おもてだな)は通り面した店舗で、後ろにうなぎの寝床のようにつながる裏長屋(職人、奉公人が住む)
構成が町屋敷である。一般の町屋敷は間口5間奥行き20間であるが、碁盤目状に町割した区画の結果で、
裏長屋の各戸は4畳半から6畳の一間で1畳半の土間に流しと竃のみ付く。
住環境は悪く江戸の人口密度を高めた。 |
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中央区日本橋人形町2丁目4。精肉販売とすき焼き割烹の「日山」。
2階では仲居さんが鍋奉行を行なう創業昭和2年の老舗店舗。
店舗横は下町の散歩道で有名な甘酒横丁で
水天宮、明治座、そして当時は3つの寄席があり賑わったとか。 |
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江戸町割の間口の町家店舗で代々歌舞伎役者の足袋専門の「大野屋総本舗」。中央区新富町2丁目2。
創業は安永時代(1772〜1781)の老舗店舗。
嘉永2年(1849)この地に移転、大野屋の近くに明治5年(1872)新富座開設
明治22年(1889)に歌舞伎座が出来て役者足袋の注文が多かったとか。 |
江戸町割りの名残でしょうか町家店舗造りの老舗佃煮の「天安」。創業は天保8年(1837)。
表店の裏に続く長屋が佃煮の作業部屋である。東京都中央区佃1-13。
この佃島には佃煮の各老舗の秘伝のタレの香りが潮風に乗り漂い今も3軒の老舗佃煮屋がある。 |
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「佃島」。 江戸時代には隣の石川島と並んで東京湾に浮かぶ小さな離れ島であった。
天正10年(1582)明智光秀が織田信長を襲った本能寺の変に徳川家康は急遽三河
へと脱出すべく摂津国佃村(現大阪市西淀川区佃町)の海辺に着くも船がなく
困窮の時に、漁民が献身的な働きをして家康を救い以降漁民と深い縁となった。
慶長8年(1603)の江戸幕府開府のときに漁民を呼び、江戸湾の漁業権を与えて
故郷の佃村から佃島と名付けた。昭和39年までは渡し舟が陸との連絡路であった。 |
江戸前の味。 佃煮。江戸湾で獲れた小魚類を塩辛く煮込んで保存食としたが、
千葉より醤油が伝わると醤油煮となり、佃島で作られたので佃煮と名付け江戸市中に売り出され安価で
保存が利き米飯と良く合い大評判となる。 |
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江戸の町割りそのままの神田の家屋ですが置屋です。
今も芸娼妓10名を抱え二階で芸を研き伝統芸を継承している。
千代田区神田多町2-9。
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目白台の鳳山酒店。店頭の陳列台や棚に時代を感じ
軒下の看板はまさしく仙台の蔵元鳳山の銘柄ラベルと同じです。
文京区目白台1丁目15-8。 |
江戸時代の町割り。徳川家康は江戸城の築城の時にはすでに江戸城下の都市計画を明確に定めていた。
江戸城の本丸・二の丸・西の丸には |
将軍や大御所。 |
江戸城の内堀の半蔵門内の吹上には |
御三家。 |
東の大手門外から和田倉門外には |
譜代大名。(現在の大手町ビジネス街) |
南の桜田門外には |
外様大名。(現在の霞ヶ関官庁街) |
西の半蔵門外から北の一ッ橋門外・神田橋門外には |
旗本・御家人。 |
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(上記の全ては現在の千代田区です) |
譜代大名の東側の常盤橋・呉服橋・鍛冶橋・数寄屋橋
(現在のJR神田・東京八重洲・有楽町・新橋汐留)から
隅田川・江戸湾に至るまでの地区を |
町人地。 (現在の中央区です) |
隅田川を越えて本所・深川・木場と東へ町人地不足解消のため |
明暦の大火(1657年)以降町人地に |
町人地の町屋。
江戸市中は京間(一間6尺5寸=197cm)が用いられた。関東地方は田舎間(一間6尺)
これは町割りの実務担当者が法隆寺村出身の都の宮大工の中井正清であったためである。
町人地の町割り。
碁盤目状の京間60間(=118M)奥行き20間(=39M)を一区画の街区で十数軒に分割された細長い鰻の寝床だった。
町人地への農村地からの流入人口増に伴い一戸当たりは細分化されていった。 |
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