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古木名木達の歴史的遺産 |
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イチョウの名木達/イチョウの名木・都内 U |
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葛西神社 弥栄イチョウ |
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掲載の3株は葛飾区の天然記念物です。
全てのイチョウが高木であり境内からは大イチョウの全景が撮れないのです。
葛飾区東金町6-10。
撮影・07.12.06. |
葛西神社は黄葉真っ盛りの黄金色一色 |
正面鳥居右脇1株 |
最初に黄葉の西参道 |
社殿右奥の1株 |
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江戸川の堤沿いに鬱蒼とした鎮守の森が葛西神社です。
この葛西神社には5株の大イチョウが凛として佇んでいます。
その内の正面鳥居脇右側と西側参道脇と社殿右奥の自生樹勢で佇む3株の大イチョウは区の天然記念物です。
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明治の初年まで金町の明神の森の大銀杏として知られていたが、
度重なる江戸川氾濫のため官命により鎮守の森は数々の大木が伐採を余儀なくされ、
樹木の森の環境は激変したがこの大鳥居左脇の根元から3本の幹に分かれた大イチョウや、
右脇の6本の幹に分かれた銀杏は、
環境に負けない旺盛な生命力を称え弥栄(いやさか)又は曾孫生え(ひこばえ)と命名されている。 |
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右側幹が6本に分れ |
弥栄が大鳥居を包む |
左側幹が3本に分れ |
創建の年代は古く平安時代の末期、後鳥羽天皇の元暦2年(1185)に領主葛西三郎清重の篤信により上葛西、
下葛西あわせて三十三郷の総鎮守として下総国香取神宮の分霊を祀ったのが始まり。
始め香取宮と称したが、明治維新の際に香取神社となり、明治14年葛西神社と改める。 |
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高木神社 |
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高木神社のイチョウは細長い境内奥の社殿脇に佇み樹高 15M 幹周り3.3Mでそれほどの巨木ではないが
樹齢は400年で葛飾区の天然記念物です。 東京都葛飾区西亀有4丁目15-20。 撮影・07.12.06. |
細長い境内の奥に銀杏が包む社殿 |
イチョウを正面から |
境内側面から望む |
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高木神社: 詳細は不明ですが江戸初期に旧砂原村の鎮守として創建される。 |
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雑司が谷鬼子母神 |
雑司が谷鬼子母神の大イチョウは幹周で善福寺の逆さイチョウ、
大國魂神社の大イチョウに次ぐ東京都3位のイチョウです。美しさもさることながら
カメラに納まらない高さにも圧倒されるものがあります。
雑司が谷の古木の大イチョウは幹周が11.0m 樹高は約33m 推定樹齢は600年以上。
であり東京都指定天然記念物です。 東京都豊島区雑司ヶ谷3-15-20。 |
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大本山護国寺 |
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護国寺の大イチョウ。境内の音羽幼稚園前の幹周りは4.6m樹高は30m近くあるすくっと伸びた大イチョウです。
真言宗豊山派大本山護国寺。天和元年(1681)5代将軍徳川綱吉が、
生母桂昌院の願いにより創建した祈願寺である。
東京都文京区大塚5-40-1。撮影・06.11.22. |
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大塚天祖神社 |
大塚天祖神社大イチョウは樹齢600年で樹高25Mの雌株であり風雪か戦火の受難で幹は樹皮が欠落してはいるが
樹勢あり新たな枝を伸ばしている。
昔の巣鴨村(今の豊島区のほぼ半分)の鎮守で鎌倉時代末の元亨年間(1321〜4)に
領主の豊島氏が伊勢の皇大神宮の神を迎えてお祀りしたのが最初だと言われている。
明治6年に天祖神社と名前が変わるまでは神明社・神明神宮と呼ばれていた。
豊島区南大塚3丁目49−1。 |
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浅草忍岡高校 |
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忍岡高校の大イチョウ。このイチョウは蓬莱園時代からのイチョウで
樹齢は約400年で樹高18m、幹周り4.8m。
校内の他の樹木を圧する高さとその姿の秀麗さで東京都の木に指定されている。
東京都台東区浅草橋 5−1−24。撮影・06.11.22. |
忍岡高校の歴史は古く明治36年(1903)私立日本女子美術学校として芝公園の旧弥生館内に創設。
昭和15年(1940)旧町名の台東区浅草向柳原町2丁目12番地 蓬莱園跡(現校地)に移転。
昭和24年男女共学となる。
蓬莱園は江戸時代三大名園のひとつで肥前平戸藩主松浦氏の要請で小堀遠州が造営した名園であった。 |
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光が丘公園 |
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光が丘公園の草原広場で黄葉に染まる大イチョウ |
草原広場の円錐形の大イチョウ |
公園内イチョウ並木の脇の銀杏 |
都立小金井公園内のいこいの広場の円形大イチョウと同様にこの人工美の樹勢に感嘆です。
公園内のイチョウ並木やふれあいの径のイチョウ並木も散策するのには最適です。撮影・07.12.06.
公園は練馬区光が丘二・四丁目、旭町二丁目、板橋区赤塚新町三丁目に及ぶ。 |
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都立光が丘公園: 都市近郊の農村地帯であったが昭和15年の紀元2600年記念に大緑地計画される。
しかし太平洋戦争が始まり計画は変更され、陸軍の「成増飛行場」が建設されました。
戦後グラントハイツとして米軍の管理下にあったが昭和48年に返還が完了し、
総面積の約1/3が公園として確保される。 |
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