歴史の 浪漫街道  今もあぜ道・脇道・山道に佇みつずける六地蔵。本宿共同や大戸観音堂は銀杏の下に佇む。
無名の民達の歴史的遺産 



地蔵達の群像・その弐



    府中西府町 本宿
本宿共同墓地の六地蔵は黄葉した2本の大イチョウの黄金色に包まれ静寂のなかに佇んでいる。 六地蔵の建立の刻印は正確ではないが微かに享保17年(1732)と読み取れる。
府中市西府町3丁目3。
  本宿共同墓地の2本の大イチョウに抱かれた六地蔵。06.12.16. 黄葉の舞い落ちる中、立像地蔵と坐像地蔵と共に佇む。06.12.16.

本宿(ほんしゅく): 現在の府中市西府町2丁目・本宿町2丁目・美好町2丁目のそれぞれ一部に集落の中心があった村落で、 甲州街道が府中片町高安寺の南からハケ下を通り、谷保天満宮の境内の南側から日野の万願寺へと続いていたころの宿場であった。 しかし正規には甲州街道38次に含まれていない。日本橋から8番目の本宿一里塚が現存する。  

    八王子山田 同証院

同証院の地蔵達。05.11.16. 江戸時代の地蔵が六地蔵を見守るのか。05.11.16. 同証院の六地蔵。後方の3対の地蔵は江戸時代の建立であるが六地蔵の後方で刻印が確認できない。 この地蔵は隣接する本山の臨済宗南禅寺派広園寺(康応2年・1390年創建)より移設されたものである。 江戸時代の地蔵顔には味がありますね。
東京都八王子市山田1577。撮影・05.11.16.


    立川柴崎 普済寺
普済寺の天明6年(1786)の六地蔵です。歴代の普済寺の住職の墓石の前に建立されている。 地蔵達の口元をよく見ると左から「なむあびだぶ」と唱えているようである。 普済寺は貞治2年(1362)に初代和尚・・とあるが石碑には貞治2年(西暦1326)と石工の誤りの 刻印のままである。これも愛嬌か。立川市柴崎町4-20。撮影・05.11.08. 普済寺歴代和尚の墓石前に建つ六地蔵。05.11.08. 口元が「なむあみだぶ」と見える地蔵達。05.11.08.

臨済宗普済寺は南北朝時代に活躍した豪族の立川氏一族の菩提寺として文和2年(1353)に創建された名刹である。 高さ2mの土塁が2箇所に残されており砦の一部で立川氏の館跡といわれ、立川市の名称となった。  


はすの華。

何故お地蔵さんは赤い前垂れ(前掛け)を付けているのか?
何時ごろからの風習なのか。その習慣の理由は何でしょうか。
編集者の勝手な解釈は以下の通りですが。

1。幼き子らが奉公人に出た安土桃山・江戸時代は赤い前掛けを着用した。 親が幼き子らの無事を願ったことから。
2。子供が生れると前垂れを作り地蔵菩薩に奉納した。その時には赤色だった? 子供の成長を願ってのことから。
3。医療法がない時代の死亡率が高い麻疹、疱瘡、 天然痘の疫病神は赤い色を嫌うという信仰から魔除けとした。

  インドから伝わった仏教上の理由が在るのでしょうか? anime064.gif(3088 byte) 是非掲示板に皆さんのご意見をお聞かせ下さい。



    町田相原 大戸観音堂

六地蔵の全て耳大きく彫り深い地蔵顔は後期に取り付けか。06.12.06. 破損を防御するためか金網に囲まれている。06.12.06.   大戸観音堂の六地蔵。悲しいかな六地蔵は馬頭観音1基と庚申塔1基とともに金網に囲まれている。 六体の頭部は破損したのでしょうか地蔵顔は彫り深く現代的で後期に取り付けたのでしょう。 建立刻印は判読できないが庚申塔の刻印は寛文10年(1670)の造立。
東京都町田市相原町4638番地。

大戸観音堂の建立は慶長元年(1596)で現在は里村であるが 旧地名の大木戸時代は鎌倉〜藤沢〜大木戸〜秩父〜高崎への鎌倉街道山の道といわれる分岐の要所であった。  


    品川上大崎 高福院
高福院の六地蔵。建立年代の刻印は判読できず。 高福院は慶安元年(1648)現在の国立自然教育園内にあった高松藩主松平讃岐守が開基した。 その後天保15年(1844)に現地に移築された。品川区上大崎2-13-36。   祠の中で大切に保存され上半身赤い前垂れに包まれている。06.10.08. 左に佇む立像地蔵に古の年代を感じる。06.10.08.


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