歴史の 浪漫街道  桜の下の吉祥院の六地蔵、晩秋のこぼれ日のなか前垂れを身につけた曹洞宗泉龍寺。
無名の民達の歴史的遺産 



地蔵達の群像・その参


    多摩豊ヶ丘 吉祥院

吉祥院の地蔵達も頭巾を新たに今年も春を迎えました。07.04.07. 背中に淡い春日を浴びながら満開の桜達を愛でている。07.04.07.
桜に包まれた地蔵達は新しい頭巾に変わっている 07.04.07. 吉祥院の地蔵達は今年も満開の桜達と対峙して愛でている

桜に包まれた吉祥院の六地蔵。 山門横の石垣の上に立ち並ぶ地蔵達を春の陽射しを受けた桜達が包み地蔵顔を桜色に染めている。 撮影・06.03.31. 桜に包まれた吉祥院の六地蔵。06.03.31. 山門まで続く桜と六地蔵。06.03.31.

吉祥院の地蔵群と庚申塔。05.10.01. 多摩市吉祥院の地蔵群。05.10.01. 櫻と萩の花を背にした吉祥院の地蔵群。傍の庚申塔の刻印は文政2年(1819)で 地蔵群は寛政9年(1797)の建立です。樹齢600年の都指定天然記念物の枝垂桜は 残念ながら昭和39年の台風で枯れるが枝垂桜の子孫3本あり他にも移植されている。 多摩市豊ヶ丘1丁目51-2。撮影・05.10.01.


    小平天神 延命寺
小平市の延命寺の坐像地蔵と六地蔵。
中央の坐像地蔵は嘉永xx(1848〜)と刻印不鮮明で判読できないが、 最も手前の立像の刻印は鮮明で文化5年(1808)である。
延命寺門前の庚申塔の青面金剛は嘉永3年(1850)建立で市の指定文化財です。
小平市天神町2296。撮影・05.09.18.
  小平延命寺の地蔵群。05.09.18. 延命寺の地蔵群。05.09.18.

真言宗延命寺は小平の新田開発時に武蔵野国多摩郡中藤村(現武蔵村山中藤)から移住の数人の 農民達により菩提寺にと享保18年(1733)に創建された。  


    稲城 常楽寺

常楽寺の地蔵菩薩塔。05.06.12. 坐像地蔵と六地蔵の一対地蔵群。05.06.12.   稲城市常楽寺の地蔵菩薩塔と坐像地蔵と6地蔵群。
地蔵菩薩塔は寛文4年(1664)の造立で稲城市内では最も古く、 稲城市指定文化財でもある。 白い紫陽花を背景にした六坐像地蔵と六地蔵の一対配列は非常に珍しいが、 造立は刻印不鮮明で判読できず。天台宗常楽寺。建立は永禄元年(1558)です。
稲城市東長沼2101。撮影・05.06.12.


    府中白糸台 観音院
旧甲州街道の府中市白糸台3。天台宗観音院の地蔵群。保存状態は非常に良い。石材によるものと思われる。 左側から享保15年(1730)奥は供養塔か寛永15年(1638)昭和52年(1977)享保3年(1719)供養塔は 宝永7年(1710)穏やかな顔立ちの地蔵は寛政5年(1793)享保10年(1725)正徳5年(1715)の造立である。

  馬頭観世音文政4年(1821)05.03.31 観音院の地蔵群05.03.31


左側の地蔵達05.03.31 右側の地蔵達05.03.31   観音院の地蔵達は建立された時代によるものか、 それぞれ特徴ある柔和な地蔵達の顔立ちをズームでご覧下さい。


    武蔵野吉祥寺 安養寺
苔むした安養寺門前の地蔵達。六地蔵は徳川幕府の大政奉還のその時、慶応3年(1867)の建立です。 この地蔵達の前垂れは珍しくも純白なのです。決して赤い前垂れが劣化したのでは無いのです。 真言宗安養寺は吉祥寺4軒寺の1つで寛文元年(1661)開山です。
東京都武蔵野市吉祥寺東町1丁目1。撮影・05.11.05.
安養寺門前のの苔むした六地蔵。05.11.05.


    相模原元橋本 瑞光寺
瑞光寺の六地蔵。05.11.21. 地蔵達の赤い斑点模様の前垂れが目に入る。05.11.21. 曹洞宗瑞光寺の六地蔵。元文2年(1737)建造である。地蔵顔は風化のため輪郭が定かでない。 民たちの熱き思いか赤い前垂れならぬ赤い斑点前垂れは珍しいのです。 神奈川県相模原市元橋本6-1。撮影・05.11.21.


    稲田堤の出店地蔵と生田地蔵
劣化激しい出店地蔵05.02.28 府中街道の稲田堤の俗称出店地蔵。道路拡幅工事で移設するも以降事故多発で 元に戻されたための命名である。風化で輪郭が定かでない右の2体は宝永4年(1707)造立。 川崎市多摩区菅北浦1-2。   同じく府中街道沿いの川崎市多摩区生田2-9。風化の状況から江戸後期の造立か、 右端にある庚申塔刻印あるも判読不明。 生田の地蔵05.02.28


    狛江元和泉 泉龍寺
樹木に覆われた泉龍寺の六地蔵。05.12.10. 鮮やかな前垂れの六地蔵。05.12.10.   晩秋のこぼれ日のなか鮮やかな前垂れを身につけた曹洞宗泉龍寺の六地蔵。 奈良時代に開山の古刹なのです。本殿前の珍しい二階建て鐘楼の右側にこの地蔵たちがたち、 真ん中の地蔵の建立は元文2年(1737)である。 また鐘楼の左側には正徳3年(1713)建立の地蔵がたつ。狛江市元和泉1丁目6。


    台東浅草 待乳山
台東区浅草7丁目の隅田川横の待乳山(まつちやま)聖天境内。この地蔵達は本堂と同じく 大正大震災や戦災 にあい伝承は定かでないが、江戸中期の錦絵にも名所の1つとして描かれており、 これらの地蔵群は其れまでに造立されたものと思われる。 待乳山 25体の地蔵達の群像は、昔より子を持つ人々から歓喜地蔵(子安地蔵)と呼ばれている。 待乳山の地蔵群05.02.09

浅草の浅草寺(山号・金竜山)の先端として一夜ののうちに涌現した霊山と、縁起録に記載。 そのとき推古3年(595)より金龍山と号する。待乳山の呼称は編集者に理解できず。  


    上野桜木 寛永寺
上野寛永寺の地蔵群。05.05.19. 寛永寺の地蔵と石塔。05.05.19. 上野寛永寺の地蔵群とズッシリ均整とれた石塔。社務所の説明では、伝承として記録されてる事は 戊辰戦争の慶応4年(1868)彰義隊の兵火で上野一帯は荒廃し、放置されていた6体の地蔵達を 再建された寛永寺境内に移設したとのことでした。
台座は紛失して無く建立時期不明だが、 右端の供養灯には明治37年(1904)の刻印。

上野寛永寺。  元和8年(1622)第2代将軍徳川秀忠が上野の地を寄進して、江戸末期まで徳川将軍家ゆかりの 寺として威容を誇ったが明治維新の際の上野戦争で大半が炎上した。旧寛永寺は現在の東京国立博物館前。 再建した上野桜木1丁目の寛永寺は明治政府の命令で往時の10分の1の境内である。  


    谷中明王院と観智院
谷中天瑞明王院の地蔵。05.04.07.(11734 byte) 台東区谷中5丁目4の明王院の地蔵。比較的新しく昭和時代の建造と思われる。   台東区谷中5丁目2の観智院の地蔵。大正10?年の建立か横に黒光りのスリムな常夜灯。 前面には昭和時代建造の地蔵が6体ある。 谷中初音観智院の地蔵。05.04.07.(10333 byte) 谷中初音観智院の地蔵群。05.05.03.


    谷中 多寶院
多寶院の地蔵群。05.06.21. 大イチョウのある谷中霊園。05.06.21. 多寶院の地蔵群。台東区谷中6丁目。
柔和な地蔵顔の地蔵群であるが建立は不明です。 向かい側の白壁に囲まれた大イチョウがある緑地帯は第15代将軍徳川慶喜公墓所の谷中霊園です。


真言宗多寶院。慶長16年(1611)当初は神田北寺町にて創建 慶安元年(1648)現在地谷中に移転してきた。

徳川幕府最後の将軍である第15代徳川慶喜の在位は1年と4日でした。 在位最長の将軍は第11代の徳川家斉で50年間です。初代徳川家康は意外と短く2年と2ヶ月強です。  


    深川 霊厳寺
深川霊厳寺の六地蔵。地蔵顔の向きが皆違い独特の雰囲気で 見ごたえある地蔵達ですが建立の刻印は背後の白壁に阻まれて確認が出来なかった。
霊厳寺には史跡として寛政の改革を断行した老中松平定信の墓がある。東京都江東区白川1−3。
深川霊厳寺。06.02.09. 見ごたえある地蔵達。06.02.09.


    中原街道 泉澤寺
泉澤寺の地蔵05.02.28 歴史漂わす坐像05.02.28   中原街道沿い泉澤寺前の地蔵達ち。
左奥の庚申塔は享保11年(1727)左手前の坐像地蔵は 文政8年(1826)の造立である。

泉澤寺。延徳3年(1491)創建で文化財多数所蔵。神奈川中原区上小田中7丁目。


    戸越地蔵尊
戸越地蔵尊。有形民俗文化財(品川区)。旧中原街道沿いの戸越地蔵尊は古くから子育地蔵として 今も多くの民から信仰されている。江戸中期の建立。 庚申塔、供養塔類は寛文6年(1666)延宝元年(1673) 宝暦4年(1754)大正3年(1914)と時代を経ての造立である。 地蔵尊を尊びてか保存維持はよい。品川区荏原2-9。 戸越に地蔵菩薩。05.04.19. 戸越の石塔と信仰の証。05.04.19.


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