歴史の 浪漫街道  名も無き地蔵達には民の熱き思いが情熱が注がれている。地蔵顔には癒しが和みがある。
無名の民達の歴史的遺産 



地蔵達の群像・その壱


    町田 中村地蔵尊群


町田街道の町田市上小山田町の中村地蔵尊群。風化激しく13体の地蔵の内、8体が近年再造立されている。 この地蔵群は、中心の坐像地蔵が宝暦6年(1756)創立され、以降明和4年(1767)1体、明和5年(1768) 5体、安永9年(1780)2体、天明2年(1782)2体、天明3年(1783)2体の合計13体建立されている。  

石塔群と地蔵棟05.03.12 中村地蔵の石塔群05.03.12 地蔵群に隣接の供養塔を中心の石塔。風化激しく右端の道祖神すら刻印は判読できず。 やっと判読できたのは、左端の安永6年(1777)と3つ目の宝暦6年(1756)のみ。サイカチ(マメ科)の 大木あり、2車線の町田街道の向かいは明治9年開校の旧誠敬学校の跡地で古の往来を感じる。


    図師町日影橋
町田市図師町日影橋バス停南。風化してはいますが丸くにこやかな顔、地蔵顔です。 右側の写真、左から造立は、「道祖神ではない。不明?」「秋葉宮常夜燈」享和3年(1803) 「供養塔・地蔵」享保16年(1731)「庚申塔」元禄2年(1689) 「地神塔」天保13年(1843)「馬観音」不明。 町田市図師05.02.06 やはり地蔵さんを中心に05.02.06zusi-2.


    日野 坂下地蔵

日野の坂下地蔵。05.02.02
坂下地蔵左の地蔵たち。05.02.02.
坂下地蔵右の地蔵たち。05.02.02.
坂下地蔵菩薩と6体の地蔵群。日野市有形文化財。銅造である。 長らく甲州街道の日野宿西の出入り口に鎮座していたのを、このJR日野駅裏の岡に移設された。 正徳3年(1713)に江戸小舟町に居住のものが、多摩地区の232名の合力で奉造した。 それにしても、地蔵達の正面に鉄柵とは、無粋なことを。


    福生熊川 真福寺

田沢氏の墓と庚申塔。05.02.05 福生市熊川の柚井山眞福寺入口。顔立ちくっきり、地蔵の管理行き届いている。江戸後期の造立か?
斜めには庚申塔と熊川の地頭、田沢氏の墓がある。(造立年代調査中)
福生市真福寺の六地蔵。05.02.05
真福寺右の地蔵たち。05.02.05.
真福寺左の地蔵たち。05.02.05.

柚井山眞福寺。  南北朝時代(1300年代)の開山と郷資料に記されている古刹である。
田沢氏の墓。  熊川郷の地頭で元甲斐武田の家臣である。 徳川幕府より所領地を寛永10年(1633)に菜地(支給)を受ける。
 


    青梅 梅岩寺

青梅市梅岩寺の六地蔵。05.04.14.   青梅市真言宗梅岩寺の六地蔵。撮影。05.04.14.
梅岩寺は天然記念物の枝垂桜で有名です。(さくらの名木に掲載)。
この寺の歴史は古く、長徳時代(995〜999)に寛朝が開山したと伝えられ、 本尊は虚空蔵菩薩ですが、この地蔵群は比較的新しいためか 非常に均整とれた六地蔵です。建立は昭和4年(1929)です。
JR青梅線青梅駅前、東京都青梅市235。

はすの華

お地蔵さまとよく言いますが、正しくは「地蔵菩薩」です。(岩波書店広辞苑より)
「地蔵」とは 大地が善悪一切のものを蔵し浄化し育てるごとく善悪一切の人々を大慈悲で救い正す仏のこと。 「菩薩」とは  迷える一切の人々を全て救い終るまで修行を続ける修行者で仏にはならない方を菩薩という。 地蔵の姿は、頭は剃髪、右手に六輪のついた錫杖(しゃくじょう)左手に如意宝珠(にょいほうじゅ)を持ちます。
  「錫杖」は六道の迷いの世界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天人)に杖をついて入り込み
  「如意宝珠」はあらゆる願いを叶える不思議な珠で、この智恵をもって全ての人々を導き救済す意味です。

「六地蔵」とは  六道において衆生(しゅじょう)の苦患(くげん)を救うという六種の教化をいい 地獄道の檀陀(だんだ)・餓鬼道の宝珠・畜生道の宝印・阿修羅道の持地・人間道の除蓋障・天道の日光の総称。 それぞれ教え導いて善に進ませる教化の表現が六地蔵なのです。


    あきる野市油平 福徳寺
あきる野市油平、福徳寺の地蔵群。街道沿いの福徳寺山門横の地蔵達である。 中央の地蔵は建立元禄10?数年と刻印(1688〜1700?)元禄十は確認できたが以下は刻印有るも判読できず。 残念なことに地蔵菩薩の左手の宝珠と地蔵群の一体は風化のためか頭部が欠落している。 油平、福徳寺の地蔵群。05.04.14.

    町田 大戸鍛冶谷
大戸鍛冶谷の坐像地蔵。05.04.30. 鍛冶谷の坐像地蔵群。05.04.30. 町田街道大戸鍛冶谷の坐像地蔵群。地蔵群の台座は再三の道路取り付け工事で 移転や劣化のために全て取り替えられている。かろうじて一基のみ文化14年(1817)の刻印が 残されていた。保存維持の難しさを感じる。大戸囃子で有名な町田市大戸鍛冶谷3360。

    八王子堀之内 龍生寺
龍生寺の阿弥陀堂と地蔵達。05.04.26.
龍生寺阿弥陀堂
椿散る阿弥陀堂と地蔵の群像。05.04.26.
堂右手の石造と地蔵11体
阿弥陀堂裏手の地蔵群。05.04.26.
堂裏手の地蔵9体

八王子龍生寺の地蔵達34体の群像。堀の内から高幡不動への古道沿いの里山に抱かれて 阿弥陀堂正面左には明治14年(1881)と右は享保7年(1722)の地蔵。 堂の右手11体は文化4年(1807)裏手9体は天明2年(1782)左手12体は文化4年(1807)建立であるが 堂軒下にあり保存状態よく輪郭くっきりの地蔵達の群像である。  

龍生寺の石塔と坐像地蔵。05.04.26.
里山に包まれた龍生寺山門
ふくよかな坐像地蔵。05.04.26.
坐像地蔵
均整とれた宝篋印塔。05.04.26.
文化財宝篋印塔
阿弥陀堂前の常夜灯。05.04.26.
阿弥陀堂前の常夜灯

里山のふもとの今は本殿が無い龍生寺山門。 阿弥陀堂前の坐像地蔵の建立は寛政12年(1800)ドッシリとした豊かな均整とれた見事な地蔵である。 八王子市有形民俗文化財の信州高遠の石工による3mの寛政8年(1796)建立の形の整った宝篋印塔。 右側の常夜灯は文化元年(1804)の建立。古道のために今も人目に触れぬ地蔵群である。 龍生寺阿弥陀堂は寛政年間(1789〜1800)の建造である。八王子市堀の内618。  

宝篋印塔(ホウキョウ)。 唐の三蔵(中国密教を大成させた僧)の教えから出た名称で原型は飛鳥時代にみられ 石造は鎌倉時代から作られた。後の時代には供養塔、墓碑塔として用いられた。  

    八王子東中野 熊野神社
八王子市東中野の熊野神社鳥居前。伝承定かでないが神社の氏子や村人の地蔵菩薩信仰の深さを感じる。 地蔵たちの風化激しく欠損している地蔵もあり、 建立年代も辛うじて識別できた台座には天保12年(1841)と刻印されている。 面影くっきりの地蔵たち。05.01.27. 熊野神社の地蔵たち。05.01.27.(31103 byte)

地蔵達の群像は、輪郭や風化状況から石工に頼らず、全て村民自らの手造りの地蔵と推察する。 熊野神社。社殿の造営は境内の石碑から、慶長11年(1607)と記録されている。  


    八王子大横町 宝樹寺
八王子宝樹寺の地蔵達の群像。中央の苔むした坐像地蔵の造立は文久3年(1863) 右端の供養塔の造立は元文3年(1738)であるが他の地蔵達は造立年代不鮮明で判読できず。 時宗四木山宝樹寺。八王子市大横町10-18。撮影・05.05.02. 宝樹寺の坐像地蔵。05.05.02 宝樹寺の苔むした地蔵達の群像。05.05.02


yahoo!japan 登録サイトのHPです。

  「地蔵達の群像・その弐」にリンク。 トップページ「地蔵達の群像」にリンク。