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伝承と伝統の民族文化遺産 |
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祭りだ!神輿だ! お江戸の神輿 |
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小野照崎神社大祭 平成25年05月 (3年毎) |
神輿データ: 祭神:小野篁命 台座:三尺八寸(115) 建造年度:大正2年 製作者:神田・宮惣
特記: 黒漆塗りの延軒屋根 緩やかな五段刻みの勾欄を廻らせ見事な錺神輿です |
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狭い鳥居参道からの宮出しのため氏子青年会の担ぎ手達は鳥居下から内棒担ぎ |
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小野照崎神社大祭 '13.05.19.(日曜) 宮出し8時〜 宮入道中18時半 宮入19時半
渡御前回の逆廻り 午前北・午後南 台東区下谷2-13 |
大祭POP |
独特の文字で表記する扁額 |
宮出し後の静寂な社殿 |
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小野照崎神社は、仁寿2年(852)篁(たかむら)が亡くなったとき
小野篁(漢学者・歌人)が上野から京都への帰途の際にその風光を楽しんだ上野照崎
(=忍岡・しのぶがおか・上野一帯の古称です)に彼の霊を奉祀したといわれる。
その後、寛永2年(1625)忍岡に東叡山寛永寺を創建するにあたり遷座、
坂本村の長左衛門稲荷社が鎮座していた現在地に移転したといいます。 |
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狭い社殿前での祝詞響く厳かな神事 |
大祭の陰役者の印半纏の氏子青年会 |
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広い神社前通りで肩を入れ替えての神輿揉み繰り返す精悍な氏子青年会 |
同日渡御するメジャーな三社祭の北地区で行われる小野照崎神社の氏子衆の大祭で、
祭礼の隊列整え宮神輿の渡御には威厳漂う瓔珞を付けて行われる。
大正の建造宮神輿で、神田の三崎神社や東麻布の氷川神社とそっくりとか。 |
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鳥居前での氏子青年会の宮出し |
元入谷町会の担ぎで昭和通りに出る |
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入谷柳通りの道幅一杯使い威勢良く渡御 |
昭和通り入谷交差点から言問通りに入る |
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昭和通り入谷交差点から言問通り金竜小学校へと神輿揉み繰り返し方向転換 |
金竜(きんりゅう)小学校: 明治45年(1912)旧東京電車株式会社跡地に金竜尋常小学校として設立。
金龍山浅草寺が近いので金龍と命名された。
大正12年(1923)関東大震災により校舎焼失、昭和3年(1928)鉄筋コンクリート校舎竣工。
太平洋戦争の空襲で浅草一帯は焼け野原になったが、本校は焼失をまぬがれた。 (現・生涯学習センター) 台東区千束1丁目9。 |
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言問通りを入谷地区町会は泰然自若の担ぎ |
引受けて早くも興奮炸裂の仲入谷町会 |
小野照崎神社の氏子拾五ヶ町: 現在は5ブロック、17ヶ町の構成になっている。
入谷ブロック : 入谷町会、本入谷町会、下谷二丁目町会、下谷東町会。
中入谷ブロック: 仲入谷町会、入谷中央町会、入谷光和町会、入谷北栄町会。
坂本ブロック : 坂本町会、坂本二丁目町会、下谷一丁目町会。
北上野ブロック: 北上野一丁目町会、北上野二丁目町会、北上野町会。
松が谷ブロック: 松が谷三丁目町会、松が谷四丁目町会、松が谷四丁目東栄町会。 |
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威勢良い掛け声と神輿揉みで熱気渦巻く熱い鼓動が弾ける仲入谷町会の担ぎ手集団 |
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江戸時代に浅間信仰の信者が富士講社を作り、女人禁制の女性や旅が困難な民のためにと、
江戸庶民の間に富士山信仰が爆発的に広がり、江戸八百八講と言われるほどに増えた。
小野照崎神社の富士塚は文政11年(1828)の建造で下谷坂本富士と称され、
現在も6月末と7月初に山開きが行われる。
完全な形で残るのはこの富士塚と、豊島区高松富士浅間神社の高松富士、
練馬区江古田浅間神社の江古田富士の3基のみで、3基とも国の重要無形民俗文化財に指定されている。 |
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下谷地名の由来: 下谷という地名は上野や湯島といった高台、又は上野台地が忍ヶ岡と称されていたことから、
その谷間の下であることが由来で江戸時代以前から下谷村という地名であった。
本来の下谷は下谷広小路(現在の上野広小路)あたりで、現在の下谷は旧・坂本村に含まれる地域が大半である。 |
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