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伝承と伝統の民族文化遺産 |
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祭りだ!神輿だ! お江戸の神輿 |
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品川神社北の天王祭 本社中神輿 平成25年06月 (毎年) |
神輿データ: 中神輿と明治大神輿
祭神: 天之比理之当ス 台座:三尺五寸(107) 建造年度:大正13年 葵神輿を再現 製作者:不明
特記: 中神輿 城南担ぎの本家 天下一なめ祭り 甲冑風神輿で駒札に換え赤面を付ける
祭神: 天之比理之当ス 台座:四尺三寸(130) 建造年度:明治17年 製作者:地元・大橋嘉七
特記: 明治大神輿(千貫神輿) 銅葺き黒光りの高さ抑えた幅広神輿で駒札に換え赤面付ける |
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中神輿が北馬場参道を多くの観衆に囲まれて品川拍子にのり勇ましいオイヤ、オイヤ!の掛け声で渡御 |
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品川神社 北の天王祭 '13.06.09.(日曜) 惣町神輿(御殿山) 7:45〜12:40
中神輿(八ッ山) 14:15〜19:30
品川区 北品川3-7-15 |
品川神社POP |
参拝者で賑わう拝殿 |
明治17年建造の4尺3寸の神輿 |
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北品川宿の鎮守で、源頼朝が海上安全のため、安房国洲崎神社の天比理乃当スを勧請し、品川大明神と称したことを創祀とする。
元応元年(1319)に二階堂道蘊が宇賀之売命を勧請。さらに文明10年(1478)、
太田道潅が素盞嗚尊を勧請したことから、南の天王社(荏原神社)に対し、北の天王社と呼ばれる。 |
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関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が、
祈願成就の御礼として奉納したのが「天下一嘗(てんかひとなめ)の面」と「葵神輿」。
「天下一嘗(てんかひとなめ)の面」は、室町時代の作と考えらる舞楽面。
江戸時代の中期、「神輿に付けて廻れば苦しみから救われる」
とのお告げがあったことから、例大祭では無病息災・幸福招来を祈願して面を神輿に付けて渡御する。 |
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毎年渡御する甲冑風の中神輿 |
一嘗の赤面 |
品川神社の神輿の組み立ては、一般の神輿のように台座に担ぎ棒を通すのでなく、台座の下部に凹部がつけられ、
鳳凰から蕨手そして担ぎ棒とを太い縄で締め上げて固定している。
品川拍子の篠笛と締め太鼓の奏者が神輿横に付くため縦棒が付けられず、
横棒で担ぎ勇ましいオイヤ、オイヤ!の掛け声で渡御する。 |
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鳥居下から中神輿を抱え国道を横断 |
出御のため新馬場参道入口へと移動 |
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品川神社鳥居と対面の京急新馬場駅北口の新馬場参道から出御の中神輿が準備を整えて待機 |
神幸祭では、皇室の御慶事があった年には明治17年(1884)奉納の「大神輿(千貫神輿)」が、
毎年の例大祭は大正13年(1924))奉納の「中神輿」が渡御する。
53段の石段での宮出し宮入は本社惣町神輿が執り行う。 |
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新馬場参道を威勢よくオイヤ、オイヤ!と渡御 |
品川拍子の篠笛と締め太鼓が参道に響く |
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品川拍子の篠笛と締め太鼓が新馬場参道に響かせオイヤ、オイヤ!と渡御 |
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品川拍子保存会の笛睦の笛と締め太鼓の拍子にのり東海道北品川交差点を威風堂々渡御 |
品川神社惣町(そうちょう)神輿は、本社中神輿が入り込めないJR山手線内側の狭い路地が続く氏子地区を渡御する。
6月9日(日曜)の渡御路は 8時北三→小関→袖が崎→御殿山→北三12時40分着。
また急石段での宮出し宮入を執り行う。 参照:
品川神社本社惣町神輿
惣町とは中世末から近世の都市の自治・支配の最上位の単位で、織田信長が町衆支配のために利用して、
徳川家康が江戸市中に導入した惣町→町組→町という組織です。
鮫洲八幡神社にも、文化10年建造の惣町大神輿が渡御する。 |
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