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伝承と伝統の民族文化遺産 |
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祭りだ!神輿だ! お江戸の神輿 |
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品川神社 本社惣町神輿渡御 平成23年 6月 (毎年) |
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途切れない品川拍子と城南担ぎで旧東海道から八ッ山神酒所目指す惣町神輿 |
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北三町会かわら版 |
鳥居53段の男坂の急石段 |
五色旗たなびく品川神社本殿 |
品川神社 「北の天王祭」 (東日本大震災復興祈願祭)。
日時 '11.06.05.(日曜)。 宮出し8時〜宮入19時。
文治3年(1187)源頼朝が安房国の洲崎神社から天比理乃当ス
(あめのひりのめのみこと・神徳は祈願成就)を勧請して祀ったのに始まると伝えられる。
明治5年(1872)郷社に、昭和50年(1975)に東京十社(准勅祭社)に列した。
東京都品川区北品川三丁目7番。 |
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惣町(そうちょう)神輿
品川神社の氏子地域は道路が狭く大神輿では路地中までは渡御できず、
氏子町内の隅々までまわる為に惣町御輿が作られたという。
大神輿や中神輿の祭礼出御渡御時でも、石段での宮出し宮入を赤面を付け替えて代りに行う。 |
担ぎ棒幅の路地裏まで入り込む |
大拍子の太鼓と横笛は奏で続く |
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惣町とは中世末から近世の都市の自治・支配の最上位の単位で、織田信長が町衆支配のために利用して、
徳川家康が江戸市中に導入した惣町→町組→町という組織です。
鮫洲八幡神社にも、文化10年建造の惣町大神輿が渡御する。 |
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惣町神輿の赤面 |
北一町会大神輿の赤面 |
北一町会中神輿の赤面 |
御神面天下一嘗(ひとなめ)の面。
慶長5年(1600)徳川家康が関ヶ原の戦いに出陣の際、品川神社に参拝し戦勝を祈願し、
後に勝利のお礼として御神面を奉納した。
平安時代の作で国常立尊面(くにのとこたちのみことめん)と伝えられている。
江戸に疫病が流行ったある年「御神面を付けて町々を廻れば人々を苦しみから救う」との
お告げがあって、それ以来、祭礼の神輿に御神面(通称・赤面様)を付けて渡御している。 |
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品川拍子の由来は、締め太鼓を神輿に取り付け篠笛に合わせて、
割り竹にて叩く太鼓の拍子で氏子中を渡御する。
この拍子は元亀年間(385年前後)より行われた品川太太神楽の太鼓の拍子に、
江戸の囃子の笛の拍子を採り入れ、江戸時代より品川拍子として用いられた。 |
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大拍子の太鼓と割竹撥 |
品川拍子保存会の笛睦会 |
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北一町会の大神輿 |
北一中神輿の女性の担ぎ手 |
二基の北一町会連合渡御 |
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北一町会の鈴山車 |
北二町会の明治28年の翁山車 |
子供神輿が本気で53石段登り |
お神酒社は山手線内側の小関神酒所、袖ヶ崎神酒所、御殿山神酒所と
旧東海道沿いの北一神酒所、北二神酒所、北品川自次会神酒所、
八ッ山神酒所そして神社下の北三神酒所の八ヶ所です。 |
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惣町神輿が左右に振る激しい城南担ぎで大拍子撥も途切れずに旧東海道を南進していく |
品川の由来: 領主の品川氏(品河と称した時期もある)から、名前がつけられたのが有力と言われている。
品川氏は鎌倉幕府の有力御家人であったが、室町時代の応永23年(1416)の上杉禅秀の乱に関与したと、
応永31年(1424)に鎌倉公方足利持氏の命令で館周辺以外の所領を没収され、
それ以降の品川氏は史料にも見られず歴史の舞台から姿を消している。 |
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