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伝承と伝統の民族文化遺産 |
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祭りだ!神輿だ! お江戸の神輿 |
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太田姫稲荷神社 平成26年5月 (隔年) |
神輿データ: 祭神:宇迦之御魂大神 台座:二尺五寸(77) 建造年度:昭和初期 製作者:不明
特記: 延軒屋根・平屋台造りの小振りの神輿 前後の屋根には太田桔梗紋 側面屋根には三巴紋 |
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太田道灌の桔梗紋を掲げて悠然と明治大学駿河台キャンパス (リバティタワー)に入り込む小振りの宮神輿 |
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太田姫稲荷神社 '14.05.11.(日曜) 宮出し8:30〜宮入17:30
旧社名は難読の一口(いもあらい)稲荷神社。
太田道灌の娘が疱瘡 (いも)にかかった時、 京都伏見の一口稲荷神社の故事を聞いた道灌が早速平癒祈願を行い結果娘は完治した。
長禄元年(1457)江戸城内本丸に感謝の一口稲荷社を勧請した。明治5年(1872)に改称。
東京都千代田区神田駿河台1-2 |
太田姫稲荷神社の拝殿 |
駿河台・御茶の水地区への渡御 |
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長禄元年(1457)、大田姫稲荷大明神と改称。徳川家康の江戸城入城後、 社を城内西の丸の鬼門にあたる、
神田駿河台東側に移築したが、慶應2年本郷春木町より出火した大火で社殿を焼失。
その後再建したが関東大震災で再び焼失、御神体のみを湯島天神に避難させた。
昭和6年(1931)総武線鉄道工事のため現在地に移転した。 |
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境内下の広場からの午後の渡御の開始 |
神社前から元気よく道灌通りに出てくる |
渡御の隊列は氏子4町会の高張堤灯、猿田彦命、囃子車、神職、そして宮神輿と続く。 |
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威勢のよい掛け声で道灌通りの日大カザルスホール角から明大通りへと顔を出す |
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広い明大通りを悠然と横切り明大前へと前進 |
明大通りからすぐ前の明大リバティータワーへ方向転換 |
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明大通りに面した明治大学リバティータワーに威勢よく入り込んでくる宮神輿 |
明治大学は明治14年(1881)自由民権思想を学んだ青年法律家らが、西園寺公望らを協力者に迎え創設した
明治法律学校をその母体とする。
明治19年には神田区駿河台南甲賀町(現千代田区神田駿河台一丁目)の新校舎に移転し、
法律学部・行政学部の2学部を設置。明治36年(1903)に専門学校令による旧制専門学校となった際に現校名に改称。
現在も東京都千代田区神田駿河台に本部を置く日本の私立大学である。 |
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明大通りから路地中の御茶の水西町会お神酒所へと入り込む |
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西町会お神酒所前での雄叫び |
お神酒所での休息の木が入る |
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西町会お神酒所から御茶の水仲通りそして次ぎの化学会館休息所へと威勢良い渡御 |
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明治15年(1882)に開院の杏雲堂病院脇から明大通りを横断しとちの木通りへと渡御 |
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御茶の水のシンボル 「東京復活大聖堂」 (通称ニコライ堂)。
緑青を纏った高さ35メートルのドーム屋根が特徴であり、
日本で初めてで最大級の本格的なビザンティン様式の教会建築といわれる。
ニコライ堂とは建てたニコライ大主教の名前をとった呼称で、施工は清水組 (現・清水建設)で明治24年(1891)に竣工した。
ロシア国公使館の付属地であった駿河台の高台に位置していたため御茶の水界隈の景観に重要な役割をはたす。
関東大震災で大きな被害を受けた後、一部構成の変更と修復を経て東京大空襲の戦禍を逃れ現在に至る。
昭和37年(1962)国の重要文化財に指定された。 |
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yahoo!japan
登録サイト フリ-ソフトで作成のHP。 |
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