歴史の浪漫街道   お江戸の神輿 湯島天満宮 (湯島天神)の煌びやかな明治の宮神輿を一年かけて修復工事の完了ご披露の渡御
伝承と伝統の民族文化遺産

祭りだ!神輿だ! お江戸の神輿


    湯島天満宮(湯島天神)例大祭 平成26年5月 (4年毎)

神輿データ: 祭神:菅原道真公 台座:三尺七寸(112) 建造年度:明治中期 製作者:不明
       特記: 黒漆塗り延軒屋根に梅鉢紋 細密な細工の四方桟唐戸・平屋台造りの品格ある神輿。 平成26年に大修復。
 

拝殿前での宮出しの神輿揉み。'14.05.25.
平成の大修復で黒漆塗り延軒屋根に梅鉢紋が鮮やかに輝く本社神輿ご披露渡御の宮出し

拝殿前に鎮座する宮神輿。'14.05.25. 湯島天神祭り。'14.05.25.   '14.05.25.(日曜) 宮出し8時〜宮入18時
 (神幸祭は2年毎に鳳聯と宮神輿が台車で巡行)
本社神輿は四年毎の例大祭氏子地区渡御。

湯島天満宮の氏子区域は、25町会 (湯島全域と上野南部地域)ですが、御徒町は五條天神と、 明神下は神田神社と隣接する複雑な氏子地区です。
  東京都文京区湯島3-30
拝殿が幣殿で結ばれている権現造り前で宮神輿鎮座 天神祭りPOP

湯島天神は 雄略天皇二年(458)勅命により創建と伝えられ、天之手力雄命を奉斎したのがはじまりで、 正平十年(1355)に郷民が菅公の御偉徳を慕い、文道の大祖と崇め本社に勧請しあわせて奉祀し、 文明10年(1478)には、太田道灌が再建して、天正十八年(1590)に徳川家康が江戸城に入り 翌十九年豊島郡湯島郷に朱印地を寄進した。  

祭礼連合会の担ぎ手達。'14.05.25. 誉れの宮出し。'14.05.25.
まだかと大修復宮神輿に肩入れる喜びにひたる祭礼連合会 拝殿前から屋台が並ぶ参道を大鳥居まで気合の宮出し

大鳥下から切通町会。'14.05.25.
大鳥居下から一日掛けての町会渡しによる渡御の一番手は春日通りの切通町会

春日通りの切通を渡御。'14.05.25. 湯島北町会の担ぎ。'14.05.25.
春日通り切り通し坂から湯島北町会が渡御 湯島北町会お神酒所前のロータリーに入り込む

春日通りの切通を登ってくる。'14.05.25.
湯島北お神酒所から湯島天神下の春日通りのなだらかな切通し坂をゆったりと登ってくる

金助町会が本郷四丁目へ。'14.05.25.
金助町会が路地中から本郷通りの本郷四丁目壱岐坂上の交差点を目指す

金助町の由来: 元和4年(1618)幕府御小人(使い走りの用をする)頭の牧野金助に、土地を給された。 後に牧野家は屋敷地以外の大部分の土地を返納した。その後の元禄九年(1696)に町屋が開かれ、 牧野氏のゆかりで本郷金助町と称された。  

金助町会の差し上げ。'14.05.25. 本郷四丁目で町会渡しの直前。'14.05.25.
壱岐坂上で町会渡し担ぎ終えの差し上げご挨拶 金助町会担ぎ手が町会渡し最後の踏ん張りで前進

本郷壱岐坂(いきざか)とは近くに小笠原壱岐守の屋敷があったのでこの名が付いた。
元和年中(1615〜23)の本郷の図に、此坂の右の方に小笠原壱岐守(小笠原家は佐賀唐津六万石の大名)下屋敷ありて吉祥寺に隣れり。 おそらくは此小笠原よりおこりし名なるべし。 (改撰江戸志に記載)  周辺は本郷台地のために坂道の名が多くある。
 

囃し立てる天一町会の担ぎ。'14.05.25.
宮入前の湯島中坂下での天一町会の息の合った担ぎで間も無く三組弥生会に引渡す

午前の部 午前8時: 本殿前→正面鳥居右前→13:30松住会 (御茶ノ水神田明神下)
午後の部 午後2時20分: (御徒町) 長一町会→本殿前→午後18時 参集殿前
 


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