「幡随院長兵衛」: 唐津藩の武士とされるがさだかではない。本名は塚本伊太郎。妻は口入れ屋の娘・きん。
町奴の頭領で、日本の侠客の元祖ともいわれる。
旗本奴の頭領・水野十郎左衛門 (水野成之)に揉め事の手打ちを口実に呼び出され、騙し打ち承知で
「人は一代、名は末代」の啖呵を切って出向き水野の屋敷の湯殿で殺害された。享年36才。
墓所は、矢先稲荷神社近くの東京都台東区東上野6丁目の源空寺。
「新門辰五郎」: 寛政4年(1792)武蔵国江戸下谷(東京都台東区)に生まれる。
幼少の頃に実家の火事で父が焼死、 或いは自宅から出火し近辺を類焼した経験から町火消になったと伝えられる。
浅草十番組 「を組」の頭である町田仁右衛門の元へ身を寄せ、火消や喧嘩の仲裁などで活躍する。
仁右衛門の娘を貰い養子縁組し、文政7年(1824)に「を組」を継承する。
侠客の元締め的存在で弘化2年(1845)に他の組と乱闘になり死傷者が出た際には責を取って石川島牢に入牢している。
勝海舟とも交流があり、娘の「芳」は慶喜の妾となり慶喜とともに静岡に住み、
駿河国清水の侠客である清水次郎長と親交深めたが、江戸に戻り明治8年(1875)に没、 |
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