歴史の浪漫街道  お江戸の神輿 矢先稲荷神社は新門辰五郎と幡随院長兵衛 ともに粋で鯔背な江戸の華です
伝承と伝統の民族文化遺産


祭りだ!神輿だ! お江戸の神輿


    矢先稲荷神社 本祭り 平成21年6月 (毎年だが本祭りは隔年)

神輿データ:祭神: 倉稲魂命 台座:三尺五寸(106) 建造年度:昭和6年
         製作者: 行徳・浅子周慶 唐破風軒屋根・勾欄造り
 

合羽橋道具街を悠然と北進する宮神輿。09.06.14.
合羽橋通り道具街を多くの同好会に担がれて渡御の矢先稲荷神社の本社神輿

簡素大祭ポスター。09.06.14. 露天とは対照的に境内は静寂。09.06.14. 軒下の祭り提灯。09.06.14. 例大祭:09.06.14.(日曜)
宮出し 9時〜宮入18時
毎年渡御するが
 陰祭(22年)は12時宮出
台東区松が谷2-14-1

寛永19年(1642)時の三代将軍徳川家光が国家の安泰と市民の安全祈願ならびに武道の練成のために、 京都三十三間堂にならい江戸浅草のこの地に三十三間堂を建立した。 通し矢(定められた時間にどれだけの矢を通すかを競う)が盛んに行われてました。
その矢場の先に祭られたところから、矢先稲荷と名付けられました。 堂はその後、元禄11年(1698)に焼失し、再建されたところは深川でしたが 神社だけは地元民の要望でこの地に残り、現在に至っている。
拝殿の格天井には、神武天皇の時代からの「日本馬乗史」を描いた100枚の絵が奉納されています。 人物、馬の姿態、武具、服装などすべてが精密な考証のもとに描き上げられていて、 馬にまつわる歴史が一目瞭然に理解できる貴重なものです。
 

新門辰五郎。 寛政12年(1800)〜明治8年(1875)は、 江戸時代後期の町火消、鳶職、香具師、侠客、浅草浅草寺門番である。父は中村金八。
「を組」の頭、町田仁右衛門の養子となる。娘は江戸幕府15代将軍徳川慶喜の妾となる。「新門」 は浅草寺僧坊伝法院新門の門番である事に由来。
  細長提灯にを組新門。09.06.14. 軒下草鞋が独特。09.06.14.
「を組」「新門」軒下の細長提灯 鳶職の象徴のワラジを掲げる

新門辰五郎。生年月日は寛政4年(1792)という説もある。
武蔵国江戸下谷(東京都台東区)に生まれる。幼少の頃に実家の火事で父が焼死、 或いは自宅から出火し近辺を類焼した経験から町火消になったと伝えられる。 浅草十番組「を組」の頭である町田仁右衛門の元へ身を寄せ、火消や喧嘩の仲裁などで活躍する。 仁右衛門の娘を貰い養子縁組し、文政7年(1824)に「を組」を継承する。侠客の元締め的存在で、 弘化2年(1845)に他の組と乱闘になり死傷者が出た際には責を取って石川島牢に入牢している。

幕府の高級官僚の勝海舟とも交流があったと言われ、 その一方で石川島牢で知った博徒・小金井小次郎 (三多摩一円と相模で、 子分三千人を抱えた博徒の大親分)を子分のように可愛がった。
上野大慈院別当覚王院義観の仲介で一橋慶喜(徳川慶喜)と知り合ったと伝えられ、 娘の「芳」は慶喜の妾となっている。元治元年(1864)に禁裏御守衛総督に任じられた慶喜が京都へ上洛すると慶喜に呼ばれ、 子分を率いて上洛して二条城の警備などを行う。慶応3年(1867)の大政奉還で江戸幕府が消滅し、 鳥羽伏見の戦いの後に慶喜が大坂から江戸へ逃れ、上野寛永寺に謹慎した際には寺の警護、 上野戦争での伽藍の防火、慶喜が水戸(茨城県)、静岡と移り謹慎するとそれぞれ警護を務めている。 なお、慶喜が大坂城から逃げる時に忘れてきた家康以来の金扇の大馬印を回収し、 東海道を下って無事送り届けた。慶喜とともに静岡に住み駿河国清水の侠客である清水次郎長とも知縁であったと伝えられる。 遠江国磐田郡での製塩事業にも協力した。明治になると東京(江戸)へ移る。 明治8年(1875)に没、享年75(または83)。
 

合羽橋商店街を担ぐ。09.06.14. 威勢良く担がれる本社神輿。09.06.14. 先触れか、小神輿の二ノ宮は疾風の如く駆け巡る。09.06.14.
合羽橋商店街を渡御の本社神輿 狭い商店街を合羽橋道具街へ 露払いか?子神輿の二ノ宮

矢先稲荷神社の例祭は旧町名松葉町の祭礼で、 旧松葉町は八区に区切られ、松一、松二、三新会、五葉会、六新会、七冨久会、八笑会からなり、 今の松が谷一丁目から四丁目でお祀りをしている1町1社のお祭りです。
厨房器具の商店が建ち並ぶ合羽橋道具街や町内の隅々を本社神輿が渡御する。 一つの町会で祭りを行っている為、本社神輿しか必要なく町内神輿が無い。
 


鳶職現在四代目で新門辰五郎の流れを汲む叶V門は矢先稲荷神社の鳥居斜めに 後継者が住み店を構える。 鳶職とともに「江戸木遣り友声会」を結成している。
新門が仕切る祭りということで、いろんな同好会から、 本当に神輿の好きな担ぎ手が集まります。 黒塗りの屋根に輝く金箔の神紋、ゆれる大鳥や珱珞(ようらく) 風鐸鉢(ふうたくばち)の音に交じり、 「セイヤ!セイヤ!」 と息があった掛け声で担がれる。

源空寺墓地の幡随院長兵衛の墓。09.06.14. 歌川国芳の幡随院長兵衛。   矢先稲荷神社周辺には伊能忠敬や江戸時代に活躍した著名人の墓が点在する。
幡随院長兵衛の墓所は、東京都台東区東上野六丁目の源空寺墓地内。 舟型光背の地蔵菩薩立像の幡随院長兵衛墓(左)と妻きん墓(右)が並ぶ。
江戸時代後期に歌川国芳がイメージして描く正札附現金男・粋で鯔背(いなせ)な幡随院長兵衛
幡随院長兵衛の墓所 正札附現金男

幡随院長兵衛。
実在の人物で本名は塚本伊太郎。元和8年(1622)〜 明暦3年7月18日(1657)
江戸の幡随院の裏に住んでいたため、幡随院長兵衛と呼ばれるようになった。
正保・憲安の頃、旗本の不平分子が徒党を組み江戸市中を徘徊、 彼らの狼藉から町人を守るため立ち上がったがだまし討ちにあって、 明暦3年(1657)に旗本奴の頭領、水野十郎左衛門に湯殿で殺されたとされる。
歌舞伎、講談の題材に盛んに使われ、 町奴の頭領で、日本の侠客の元祖とも言われる。 生き様は江戸の華と呼ばれ、「人は一代、名は末代の幡随院長兵衛・・・」 の有名なセリフで歌舞伎や講談等で今でも演じられている。
 


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