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伝承と伝統の民族文化遺産 |
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祭りだ!神輿だ! お江戸の神輿 |
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尾久八幡神社 大祭 平成26年8月 (2年毎) |
祭神: 應神天皇 台座:三尺二寸(97) 建造年度: 昭和5年 製作者: 不明
特記: 大振りの延軒屋根 五段の龍頭の桝組 大祭(H26年)は土曜 (2年毎渡御)・日曜 (4年毎神幸祭=台車渡御) |
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宮入で繰り返す神輿揉みと最後の担ぎだと本殿前での激しい鼻棒バトルです |
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尾久八幡神社 '14.08.02.(土曜) 宮出し15時〜宮入18時
大祭は都電荒川線通りの神社〜熊野前〜 宮ノ前〜小台駅〜神社の往復渡御です
4年毎の大祭 (神幸祭)は日曜日で台車に 搭載されて全町会を巡行する。
荒川区西尾久3-7-3 |
尾久八幡POP |
都電通りより一段と高い境内での宮出し神事 |
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尾久八幡神社の創建年代は不詳ですが、正和元年(1312)に、
当地周辺が鎌倉の鶴岡八幡宮に寄進された頃に遡ると推定されています。
江戸時代には当地周辺(旧上尾久村・旧下尾久村・旧船方村)の鎮守、明治期には村社に列格していました。 |
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神事執り行い宮神輿を方向転換して本殿に向け |
本殿前下の境内で宮出しの神輿揉み |
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炎天下の大祭で担ぎ手達が気合入れて本殿下で宮出しの差し上げご挨拶 |
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宮出しのため狭い境内で器用に方向転換させ |
回転させた神輿を鳥居へ向けてジワリと前進 |
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鳥居を潜り宮出しすると神社前の細い都電通りを辻払いしながら悠然と渡御してくる |
尾久八幡神社の大祭は都電荒川線通りの神社〜熊野前〜宮ノ前・小台駅〜神社の往復渡御。 |
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都電が熊野前へ宮神輿も熊野へと渡御 |
小台駅へ向かう都電とすれ違う宮神輿 |
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高架を日暮里舎人ライナーがそして都電が路面を行き来する熊野前を渡御です |
日暮里舎人ライナー: 日暮里から見沼親水公園までの約10キロの路線。平成20年開業。
都電荒川線」: 早稲田から箕ノ輪橋までの旧王子電気軌道 (王電)の約12キロの路線。
明治44年(1911)開業。幾多の変遷経て、事業は譲渡され昭和18年に呼称は都電となる。
都内を縦横に走る都電は荒川線以外はなく、他は東急世田谷線を残すのみとなっている。 |
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都電の熊野前と宮ノ前駅から折り返しの小台駅を目指し猛暑の中を小休止を繰り返し渡御 |
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お囃子屋台が祭り囃子で祭礼を盛り上げる |
正装氏子衆が高張り提灯や幟・御幣を持ち神輿を先導 |
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猛暑での渡御で担ぎ手達は疲労困憊なのか宮入差し上げが息合わず傾いたまま |
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宮入で最後の神輿揉みを繰り返し拍子木棟梁からは真直ぐに入れろと指示が飛ぶ |
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参考: 4年毎の神幸祭は土曜日の大祭に続き日曜日に巡行。
「午前」・・八幡神社→西尾久三丁目→西尾久六丁目→西尾久八丁目→西尾久七丁目→
あらかわ遊園通り→西尾久五丁目→西尾久四丁目→
西尾久一丁目→小台通り→都電通り→神社
「午後」・・八幡神社→女子医大通り→東尾久四丁目→熊の前銀座通り→都電通り→
東尾久三丁目→東尾久二丁目→東尾久一丁目→疎開通り→
大門通り→町屋五丁目→町屋六丁目→町屋七丁目→原河岸通り→東尾久七丁目→電化通り→
東尾久六丁目→東尾久七丁目→東尾久八丁目→八幡神社と巡行する。 |
神幸祭で活躍する台車が登場 |
宮神輿を台車で神輿庫へと収納 |
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都電荒川線での雄姿の車輛
旧王子電気軌道 (王電)の約12キロの路線で活躍する。
昭和時代には東京都内を縦横に走っていた都民の足の都電は、車社会に押されて衰退して今はないが、
唯一残るのが荒川線です。 |
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尾久の由来 現在はないが、旧地名は「おぐ」、小具とも奥とも書いて「おく」とも読む。
北区昭和町にある東北線・高崎線・宇都宮線の尾久駅は「おく」と表記している。
尾久の名は『小田原衆所領役帳』(永禄二年(1559)作成)には既に見え、地名の由来は豊島郡の「奥」
との伝承があるが何に対して奥なのか判らない。 「江戸の奥」だというが・・ |
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