歴史の浪漫街道   お江戸の神輿 30年振り平成の大修理の宮神輿が土曜日は北地区を日曜日は南地区を2日間掛けて渡御する久我山稲荷神社
伝承と伝統の民族文化遺産

祭りだ!神輿だ! お江戸の神輿


    久我山稲荷神社 平成26年10月 (毎年)

神輿データ:祭神: 保食命(うけもちのみこと) 台座:二尺四寸(74) 建造年度:昭和29年 製作者:行徳・浅子周慶
特記: 唐破風軒屋根 蕨手は鯉の瀧登りを取り付ける 勾欄造り 土曜宮出し13時〜 昭和59年に続き平成26年に大修理
 

参道鳥居下からの宮出しで神社前へ。'14.10.04.
久我山稲荷神社の表参道の鳥居下から拍子木と笛とハンドマイクに鼓舞されて神社前へ宮出し

祭礼POP。'14.10.04. 石段の南参道。'14.10.04. 樹木が囲む社殿。'14.10.04.   久我山稲荷神社
'14.10.04.(土曜)
 宮出し13時
土曜 人見街道
  北地区4〜5丁目
'14.10.05.(日曜)
 宮出し11時
日曜 人見街道
 南地区1・2・3丁目
杉並区久我山3-37
例大祭POP 鎮守の森の南の石段参道 太い鈴緒三本下げる社殿

昭和29年建造の台座二尺四寸の宮神輿を30年振り平成の大修理を宝珠堂小川政次 (栃木県)にて平成26年4月に実施。
宮神輿は30年前の昭和58年7月に修復修理を行徳の浅子周慶で行っている。 胴や台座と比較して蕨手を伸ばした屋根が広く、台座寸法以上に大きく見える神輿です。
  修復された三基の宮神輿。'14.10.04.  

先導役の子供たち。'14.10.04. 引き太鼓。'14.10.04.
祭礼衣装に身を包み祭礼隊の先導役 昭和3年建造 (平成20年修復)の両面打ち曳き太鼓

先払い先導役の金棒や提灯や幟を持った祭り衣装に身を包んだ子達は未来の祭り人になっている。 子等達がひく引き太鼓そして小神輿と宮神輿が続く。

 

神社前から渡御。'14.10.04.
鳥居前の宮出しから夕刻の宮入まで北地区の久我山4〜5丁目を渡御です

屋敷林の面影。'14.10.04. 狭い路地中を渡御。'14.10.04.
路地中の屋敷林の大木脇を渡御 細い路地中を上手く舵取り北進していく

広いバス通りで余裕の担ぎ。'14.10.04.
バス通りに出て初回の休息所の西神酒所手前で担ぎ手達が気合の担ぎです

立教通りの西お神酒社から出立。'14.10.04.
立教通りの西お神酒社から次の立教通りハタ建設工業お神酒所へ

立教通りバス通りを渡御。'14.10.04. '立教通り。'14.10.04.
バス通りの立教通りをゆったりと渡御 立教通りの次のお神酒所を目指す

立教女学院: 創立者ウィリアムズは、1829年米国ヴァージニア州リッチモンドに生まれで、 1855年に神学校を卒業した後、中国派遣宣教師に任命され中国に渡る。 そして1859年に日本最初のプロテスタント宣教師として任命され長崎に上陸。
明治10年(1877)現在の文京区湯島に立教女学校を設立する。 大正13年(1924)現在の杉並区久我山に木造仮校舎を建設し、移転し現在に至る。
 

ハタ建設の神酒所。'14.10.04.
立教通りのハタ建設工業お神酒所から4丁目神酒所へと鼓舞されて渡御です

久我山の秦氏は1500年代前半に神奈川県秦野より当地に移住したと考えています。
久我山の秦氏は玉川上水の内、井の頭〜高井戸間を江戸時代以前に、 井の頭の水を利用する為に、鈴木・秦 (久我山)両豪族が掘削していたと言われる。
久我山から井の頭にかけては井の頭道が走り、道に沿って秦氏の居住区が広がっており、 現在も久我山稲荷神社氏子衆に多くの秦姓が見受けられる。
 

久我山4丁目の神酒所。'14.10.04.
久我山4丁目お神酒所の路地中に入り込み後半の5丁目渡御のため休息です

久我山地名の由来: 「くが」は空閑または陸で空地という意味があり、「新開地」のことと考えられている。 地名は古くからあり、玉川上水と神田上水の間の起伏が続く区域を言いますが、久我山という山はありません。
かつて村内の小名札の野は、原野開発の高札場で 「農業を営もうとする者は重罪人でも許す」 旨の高札が立ててあったといい、未開の地だったことは間違いないようです。
 


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