歴史の浪漫街道  お江戸の神輿 深川神明宮の例大祭は鳳輦従えての神幸祭そして日曜は町神輿12基水掛祭
伝承と伝統の民族文化遺産


祭りだ!神輿だ! お江戸の神輿


    深川神明宮 例大祭(神幸祭) 平成21年8月 (3年毎)

神輿データ:祭神: 天照大御神 台座:四尺(120) 建造年度:昭和9年 製作者:行徳・後藤直光
 特記: 段葺き延軒屋根・平屋台造り 神明鳥居 白木の胴の大神輿。 町会神輿は水掛祭り。
 

昭和9年建造の黒漆塗りの段葺き延軒屋根の神輿。09.08.15.
戦前の黒漆塗りの段葺き延軒屋根の風格漂う宮神輿 神幸祭では水を掛けない

見やすいかわら版。09.08.15. 昼下がりの神明宮社殿。09.08.15. 静かに渡御待つ宮神輿。09.08.15.
例大祭かわら版 深川神明宮の社殿 午後渡御のため鳥居前に鎮座する宮神輿

神社は1596年ごろ、この一帯を開拓した深川八郎右衛門が伊勢神宮の分霊をまつったのが起源とされる。 深川の地名の由来でもある由緒ある神社だ。

神明さまの夏祭りは、'09.08.15。 (土曜)宮出し8時〜17時。
例大祭は二日間で、土曜に宮神輿が渡御。最終日の日曜には氏子十二町の町神輿が繰り出し、 沿道からは神輿目掛けて水が掛けられるため「水掛け祭り」とも言われる。
 

出御祭の後即担がれる。09.08.15. 境内脇を一巡への渡御。09.08.15. 神社脇の宮元お神酒所。09.08.15.
鳥居前から午後の宮出し 宮元が境内脇を渡御 鳳輦を従えて宮元お神酒所へ

清澄・新大橋交差点での差し切り。09.08.15. 千歳3丁目への渡御。09.08.15.
恒例の森下交差点での差し切りを決める 千歳三丁目へと清澄通りを渡御

宮神輿の渡御(神幸祭)は氏子12ケ町を担ぎ渡しで行なわれます。午前の部は高森5ケ町。 午後の部は八名川千歳地区7ケ町です。(次回の渡御路は逆周り)
辻払いの神職を先頭に、各町の子どもによる幟旗、社名旗、太鼓、鳶頭衆による木遣り、浅黄の袴の宮総代が先導します。 宮神輿の後には騎馬の宮司、そして戦前作の貴重な御鳳輦が続きます。 ご本社神輿には水は掛けません。

  祭礼の脇役たち 神幸祭なので鳳輦も主役ですが
鳳輦と神輿とどちらも神が乗る乗り物です。 大きな違いとしては神輿は「輿」で人がかつぐもので、車などはついていません。 鳳輦は「車」で(台車)で人が曳くものです。 残念ながら最近多くの神幸祭では、台車ではなく風情もなくトラックに乗せての巡行です。  

粋な木遣り衆が先導する役割。09.08.15. 顔を見せる猿田彦神。09.08.15. トラックに乗って巡行の鳳輦。09.08.15.
深川の木遣り衆が境内に参集 人面をだす猿田彦は珍しい 祭列最後尾につく鳳輦

深川地名の由来。   現在の深川一帯は葦の生い茂る三角州で、住む人もまだいませんでした。その頃、深川八郎右衛門(摂津の人と伝えられる) が一族を引き連れてこの地に移り住み、土地の開拓に着手しました。 慶長元年(1596)、家康公が当地を巡視されたおりに、深川八郎右衛門を呼びよせ、地名を尋ねました。 「まだ住む人も少なく地名もない」と応えると、家康公は八郎右衛門の姓「深川」を地名とするよう命じました。
深川の地名の発祥は、神明さまの鎮座する実にこの地なのです。以来、深川の地は江戸の繁栄とともに賑やかな町となり、 深川氏は開拓の功績により代々深川二十七ヶ町の名主を務めました。深川氏は宝暦七年(1757)に七代で断絶しますが、 菩提寺の泉養寺(市川市国府台)に今も墓所が残っています。
 


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