歴史の浪漫街道  お江戸の神輿 氏子区域の細い路地中を隅々まで渡御する万灯神輿発祥の隅田稲荷神社
伝承と伝統の民族文化遺産


祭りだ!神輿だ! お江戸の神輿


    隅田稲荷神社 神幸祭 平成24年6月 (昨年の順延・3年毎)

神輿データ: 祭神: 倉稲魂命 台座:三尺三寸(101) 建造年度:大正5年 製作者: 不明
   特記: 延軒屋根・平屋台造り 桟唐戸の細工や彫刻が見事。万灯神輿の発祥の神社
 

鐘ヶ淵駅東口を渡御する西町町会。'12.06.10.
中町町会から鐘ヶ淵駅東口路地で引き受けた威勢のいい西町町会

神幸祭POP。'12.06.10. 隅田稲荷神社。'12.06.10. 二尺五寸の中神輿。'12.06.10.   隅田稲荷神社
'12.6.10.(日曜)
  宮出し 8時半
  宮入 16時半
万灯神輿渡御
  18時より
 (宵宮も同時刻)
墨田区墨田4-38
隅田稲荷POP 隅田稲荷神社の社殿 陰祭りに渡御の二尺五寸中神輿

隅田稲荷神社は天文年間(室町幕府の1532〜1555)の時代、伊豆韮山の堀越公方政知が亡びて、 その家臣の江川善左衛門雅門(隅田開拓の祖)とその郎党がこの地へ逃れてきて、 京都伏見稲荷を勧請して氏神としたのが始まり。  

神幸祭の先導役員。'12.06.10. 威嚇形相の獅子頭。'12.06.10. 先導役の猿田彦。'12.06.10.
神幸祭の先導役員と金棒 力強い形相の獅子頭山車 一本歯鷹下駄の猿田彦

賽銭箱。'12.06.10. 路地に入り込む宮神輿。'12.06.10. オープンカー乗車の宮司。'12.06.10.
浄財の協力願う賽銭箱 狭い路地中を渡御してくる オープンカー宮司と氏子総代

神幸祭の隊列は狭い路地中へも入り込むが、殿の宮司と氏子総代のオープンカー乗車は珍しい。 宮神輿の本宮の留守を預かる中神輿は、市川本行徳の中台祐信作で陰祭のときに担ぎ出される。  

鐘ヶ淵踏切目指し渡御。'12.06.10. 一転狭い路地を渡御。'12.06.10.
幅広の鐘ヶ淵駅東口前を威勢よく渡御 ぎりぎりの路地中へ入り込んみ渡御

宮出し後中町地区、西町地区と渡御して、 13時から二車線道路を通行止めにした隅田3丁目道路の鐘ヶ淵踏切から神社入口までは、 三町会連合、中町、東町、西町と引き継いで担ぎ、神社周辺の東町地区を渡御して宮入です。  

身動きもできぬ路地へ担ぎこむ。'12.06.10.
鐘ヶ淵駅前踏切から狭い路地中を内側担ぎで入り込み渡御する西町町会

万灯神輿の善一之宮。'12.06.10.   隅田稲荷神社は万灯神輿発祥の地で元治元年(1864)より万灯神輿の行事が行われている。
江川善左衛門雅門の開拓由来を錦絵で描き、担いだのが始まりで、大正4年に中止となった。 万灯神輿の善一之宮は昭和49年(1974)に復活建造であるが、 経年劣化激しく例大祭中は神輿庫にて展示で、宵宮及び例大祭では善二之宮が担ぎ出される。

鐘ケ淵の由来  東武伊勢崎線の明治35年に開業の駅名は地名から命名された。
元和6年(1620)、橋場、石浜の地にあった寺院が亀戸村に移転、 そのときに寺の鐘を船に乗せて隅田川を渡ろうとして誤って鐘を水中に落とし、 鐘を引き上げることが出来ず以後、鐘の沈んだあたりを鐘ケ淵というようになったそうです。
明治20年(1887)に東京綿商社として創立し、鐘ヶ淵で創業した紡績会社であることから鐘淵紡績、 後に略称の鐘紡(カネボウ)が正式社名となる。 非繊維事業強化で最強企業群となったカネボウは創業120周年で解散となる。まさに栄枯盛衰です。
 


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