歴史の浪漫街道  お江戸の神輿 べったら市で賑わう日本橋本町界隈を恵比寿神輿が渡御の寶田恵比寿神社
伝承と伝統の民族文化遺産


祭りだ!神輿だ! お江戸の神輿


    寶田恵比寿神社  平成24年10月 (毎年)

神輿データ: 祭神: 宇迦之御魂命 台座:一尺九寸(58) 建造年度:昭和27年 製作者:
     日本橋本町・関徳    特記: 唐破風軒屋根 胴羽目に恵比寿を掲げた小神輿です。
 

寶田恵比寿神社へ差し上げご挨拶。'12.10.19.
べったら市で夕暮の参道から日本橋本町界隈を渡御のため寶田恵比寿神社へ差し上げご挨拶

べったら市POP。'12.10.19. 細長い社殿を覆う屋根。'12.10.19. 明治座歌舞伎役者の献燈。'12.10.19.   寶田恵比寿神社
'12.10.19.(定日)
祭典べったら市
(恵比寿講前日)
出発16時半〜
    宮入20時
中央区日本橋
  本町3-10
恵比寿べったら 寶田恵比寿神社と参道の大提灯 自慢の明治座歌舞伎役者の献燈

恵比寿神社は徳川家康江戸入府以前は、江戸城外宝田村の鎮守でしたが、 馬込勘解由は家康が入府の時、三河の国から随行した功に依り、 運慶作と伝えられる御神体の恵比寿神を徳川家康から下賜される。 江戸城拡張により宝田、祝田、千代田の三ヶ村の転居を命ぜられ、 宝田村の鎮守様を当地へ遷座する。  

寶田恵比寿神社の祭神は宇迦之御魂神、事代主命、少彦名命、大国主神、大己貴命、素盞嗚命。
同社は明治六年に神田神社兼務社となり、本町三丁目(旧大伝馬町一丁目) 大伝馬町一丁目(旧大伝馬町二丁目)が氏子である。
恵比寿神の神紋は「蔓三つ柏」
  蔓三つ柏の屋根紋。'12.10.19. 胴に鯛と恵比寿。'12.10.19.
恵比寿神紋の蔓三つ柏屋根紋 神輿胴の目出度い鯛釣る恵比寿

社殿前から担ぎ出し。'12.10.19.
参道のべったら市で品定めの買い物客の中に割り込んで寶田恵比寿神社前から担ぎ出し

神社は通りに面して鳥居と社殿があるだけで境内もないが、 宝田恵比寿神は商売繁昌、家族繁栄、火防の守護神として、崇敬者は広く関東一円に及び毎年10月19日の 「べったら市」、20日の恵比寿神祭が両日に盛大に執り行われる。  

社殿に渡御のご挨拶。'12.10.19. 御幣に先導され本町を渡御。'12.10.19.
渡御のご挨拶のため先ずは社殿へ方向転換 社殿を後に夕暮の中へ御幣に先導され渡御

参道入口の跨木を潜る。'12.10.19. 夜店屋台を掻き分け渡御。'12.10.19.
威勢良い掛け声と共に参道入口の跨木を潜る 夜店屋台を掻き分ける様に大伝馬町神酒所へ

日本橋大伝馬町一之部お神酒所。'12.10.19.
日本橋大伝馬町一之部お神酒所での渡御差し上げご挨拶

馬込平左衛門勘解由(かげゆ)は、江戸城拡張により住民を引率してこの地に集団移動して起立した大伝馬町は、 金銀為替、駅伝、水陸運輸と重要な役割を担い大変賑わいました。 馬込家は代々伝馬役・名主役を務めた。
初代馬込平左衛門は遠江国敷知郡馬込村出身で、幼少より時の領主徳川家康に仕え兵站を担っていた。 娘「お雪」がウィリアム・アダムス(三浦按針/航海士ヤン・ヨーステンは八重洲として地名となる)へ嫁ぎ、 マリアと名乗ったという。
 

大伝馬町お神酒所から渡御再開。'12.10.19. 大伝馬町から本町へ。'12.10.19.
休息後の大伝馬町お神酒所からの渡御 大伝馬町の跨木を潜り再度本町へ戻る

日本橋大伝馬町一之部町会の江戸時代にあつた半纏を複製した諫鼓鳥の半纏です。 大伝馬町の諌鼓鳥山車のいわれは、中国で君主の失政を正すために、太鼓を門前に備えて諫言の時に叩かせたことに由来する。
神田祭り一番山車の大伝馬町諌鼓鶏の山車でも有名です。
  天子を諌めるかんこ鳥。'12.10.19. 神紋の蔓三つ柏。'12.10.19.
大伝馬町一之部の諫鼓鳥の半纏 寶田恵比寿の神紋は蔓三つ柏

べったら漬け。'12.10.19.   「べったら市」は、江戸中期の中ごろから、宝田恵比寿神社の門前で10月20日の恵比寿講 (商家で恵比須をまつり、親類・知人を招いて祝う行事)にお供えするため、 前日の19日に市が立ち魚や野菜、 神棚などが売られるようになったのがその起源。 浅漬け大根のべったら漬け(塩と糠で下漬けをし、麹と砂糖などで漬けた大根) がよく売れたことから「べったら市」と呼ばれる。

日本橋: 慶長八年(1603)家康が、江戸城の城下町を整備し、本多正信(初期の老中)に舟入堀を掘らせた際に架橋した。 江戸のど真ん中に架けられた御入用橋(幕府直轄管理橋)で、 この時初めて五街道(東海道・甲州街道・中山道・日光街道・奥州街道)の起点とした。
日本橋本町の由来:  江戸。家康入国ころは福田村といっていたようだ。江戸城拡張の際、大手町辺りにあった「江戸」をこの地に移し、 江戸の根本の町として「本町」とした。本来「江戸っ子」とは本町生まれの者だけをいう。 東西の本町通りは奥州街道で大伝馬町・通旅籠町・浅草橋・浅草へと続いた。 対して日本橋通りは神田須田町から新橋までの南北の一筋道をいう。
 


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