歴史の 浪漫街道 お江戸の神輿 祭りだ!神輿だ!神輿事典  「や・ら・わ項目」八咫烏や瓔珞、夜店や例祭など
伝承と伝統の民族文化遺産


祭りだ!神輿だ! 神輿事典


    や・ら・わ項目

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南大沢4丁目の屋敷神。09.03.12.



屋敷神 (やしきがみ)
敷地内に祭る神である。屋敷神の起源は明確なことは分かっていない。 しかし神格としては農耕神・祖先神と同一の起源を持つ神だと言われている。 その後、有名神社の分霊を祀っていることが多くなる。
屋敷神の多くは石造か木造の小祠である。普通の神社のような社殿を持つことはまずない。 丁寧に祭祀されている場合は末社程度の規模の社殿を建てられ、鳥居までも持つこともある。
敷地内に祭る神としては、稲荷信仰(農耕・商業神信仰)、八幡神(弓矢・武道の神)、熊野神社、 神明社(天照大神)、秋葉神社(火難よけ)などが多い。
地主神(その土地の神とされ、その土地を守護する神)。

墨田箕輪囃子連の屋台。07.04.29. 屋台 (やたい)=囃子屋台
渡御行列の先頭に立ち祭り囃子を奏で、祭り気分を盛り上げる。囃子を奏でる手押しくるま。 太鼓・締太鼓・鉦・笛を用いて奏でる。
多くは町会神輿とともに祭礼行列に加わる。居囃子を行う町会もある。

また移動が可能で、物を乗せて売り歩く小さな台をさす時もある。(屋体店)。

    お江戸八百八町: 屋台と外食

江戸時代初期、江戸の町には外食の飲食店がなく、飲食店が現れ始めたのは明暦の大火(1657年)以降といわれています。 各地から多くの人々が江戸へ移住し、その多くが単身の男性であったこと、 また参勤交代により妻子を故郷に残して江戸へやってくる武士が多いこともあって、外食の需要が強くありました。 そうした人々に食べ物を提供するために、様々な食べ物屋が現れました。

江時代初期には「飯屋」 (めし屋)が登場し、例えば井原西鶴の「西鶴置土産」によれば、 明暦3年(1657)に浅草に出店した飯屋の奈良茶(茶飯、豆腐汁、煮しめ、煮豆のセットメニュー)は人気を博したという。 貞享3年(1686)には、蕎麦切りその他火を持ち歩く商売を禁止するお触れが出されている。 中期から後期にはそば屋の二八そばが人気となり、留守居茶屋(大名がいない間、 大名屋敷を預かる留守居役を相手とした高級茶屋で、会席料理を出していた)ができ、 明和8 年(1771)に、深川洲崎で営業を始めた升屋は、料亭の元祖といわれる。
屋台店では、てんぷら屋が文献で紹介されたのは、寛延元年(1748)で屋台ではこの店が一番多かった。 握り寿司は文政年間(1818〜1830)に花屋与兵衛が考案し、稲荷寿司も売られ、 惣菜を食べさせる、居酒屋を兼ねた煮売り屋、一膳飯屋などもおおいに繁盛した。
単身男性の多かった江戸では、外食の店や屋台は必要不可欠であったのです。

京都の下賀茂神社の賀茂の八咫烏。05.05.14.

東神奈川熊野神社。'14.08.17.
八咫烏 (やたがらす)=神の使い
神の使いで神そのものではない。

記紀伝承で神武天皇東征のとき、熊野から大和に入る険路の先導となったという大烏で、 姓氏録によれば、賀茂建角身命(かもたけつのものみこと)の化身と伝えられる。

賀茂建角身命は後に山城の賀茂川上流に移住したという。賀茂神社の祭神です。

中国古代説話で太陽の中にいるという三本の赤色の烏の、日本での称。

大鳥神社社殿前で目黒奴の長槍渡しの奉納。06.09.10.
大鳥神社の目黒奴

家紋より参照の釘抜紋。
釘抜紋




奴 (やっこ)
武家に働く者の中でも低い身分にあたり、「中間(ちゅうげん)」や「折助(おりすけ)」 と呼ばれていた身分の人たちを、蔑むときの呼び名である。 「家つ子」(やつこ)が語源であるとされる。

農民や一般町民が雇われてなることが多かったらしい。武士が出かける時の荷物持ちなど、雑務をこなしていた。 参勤交代の時には大勢の奴が必要となるため、このときだけ臨時で雇われるということも多かったという。
奴は、大きな四角形を染めた半纏を着ていることが多かった。この紋所は、「釘抜紋」と呼ばれる。 この紋所から、食材を大きめの立方体に切ることを「奴に切る」と表現するようになった。 「冷奴」は豆腐を奴に切って食べることからその名がついた。
現代でも正月などに凧揚げをする際によく見かける「奴凧(やっこだこ)」は、 この奴の筒袖を張った姿をまねて作ったものである。
また、遊郭や花柳界の女性がこの身分の男性の言行をまねることがあったことより、 遊女や芸者を「○○奴」と呼ぶことがあった。

歌舞伎、歌舞伎舞踊、祭りの大名行列、等では、上記の奴の扮装を様式化した繻子奴(しゅすやっこ)が登場する場合が多い。 上記の半纏を綿入りにして、丸ぐけの太い帯を締め、伊達下がりを見せる場合が多い。
これは義侠に富む気風を生じ、奴という名が奴僕のことでなく、侠気があって腕がたち血気の勇ある者をいうようになった、 江戸初期の旗本奴、町奴の源流である。

やっちゃ場
青果市場の俗称。競り市場の掛け声が「やっちゃやっちゃ」と聞こえたことから。 やっちゃ場の始まりは、戦国時代から安土桃山時代の頃といわれる。

湯島天神の本社神輿の屋根紋。06.05.28. 屋根紋 (やねもん)
神輿の屋根に付ける、梅鉢紋、巴紋、等がある。

縁起のよい鳳凰・麒麟・亀・龍の四瑞や神輿を奉納した人の紋(徳川家康などの葵)、 稲荷神社の神輿は稲穂の紋などが多い。 円形のものを1面に1個付けるのが一般的であるが数個付けている例もある。

日枝神社の日本武尊。08.06.13.
日枝神社神幸祭の日本武尊



日本武尊 (やまとたけるのかみ)
記紀における英雄伝説の主人公。景行天皇の皇子で、大碓(おおうす)皇子と双生児。 小碓(おうす)尊、日本童男(やまとおぐな)とも記載される。

景行天皇の27年熊襲(くまそ=古代九州西南部の地域) の川上梟帥(かわかみのたける)を女装して討伐。
40年東夷征討の途中伊勢神宮で倭姫(やまとひめ) 命から天叢雲(あまのむらくも)剣を受け、駿河、相模、上総、 日高見国(=古代の仙台平野の北上川下流地方)を平定する。
帰途尾張の熱田神宮の地に剣をとどめ、伊吹山の悪神のため病を得て、伊勢の能褒野 (のぼの=三重県鈴鹿市、亀山市)で客死。

大和朝廷発展期の数次の東西平定事業の集約的・抽象的人物とみられる。

    お江戸八百八町: 厄年 厄払い 厄落とし

江戸時代には厄年は男子二十五歳、四十二歳。女子十九歳、三十三歳を厄年と定まった。 厄除けの神様といえば川崎大師、江戸時代にも正月二十一日の厄除け大師の日には厄年男女の参詣人で賑わった。    川柳 「川崎へ六つちがいの夫婦づれ」

厄落としは、身に着けているものをわざと落として厄を免れるといわれ、 男子は「褌」、女子は「湯文字(腰巻)」を年越しの夜に人知れず道に落として厄落としとした。

墨田稲荷神社の万灯神輿の弓張細提灯。08.06.15. 弓張細提灯 (ゆみはりほそちょうちん)
鯨のひげや竹を弓のように曲げ、火袋をその上下に引っ掛けて張り開くように造った提灯。 弓のところを持つ。

万灯神輿では弓の部分で神輿の屋根の四面の軒先に取り付ける。

よいさ=よいしょ
小唄などの囃子(はやし)の声。よいやさ。よいしょ。
力を入れる時、重い物を引く時、物を受け渡しする時などの掛け声。よいしょ。

  「よいよいよいやさぁ!」 神輿が下がってしまった際に持ち上げる時の掛け声。

中町天祖神社。09.10.01. よいと
よいと担ぎとは、神輿を掛け声を上げずに静かに担ぐこと。 神輿の上部が木々などの障害物を避ける際や喪中の家の前を渡御する際に「よいと」で担ぐ。

担ぎ棒を手で下げるように担ぐか、肩で担ぐが揉まないように静かに担ぐ。
長時間の「よいと」は結構きつい!と言われる。

宵宮 (よいみや)
祭礼の前夜に行う小祭り。宵祭り(夜祭)

宵とは日が暮れてまだ間がない時。

神田市場の千貫神輿。07.05.12.
 神田市場千貫神輿は重厚
京の御霊神社の今出川口神輿の瓔珞。07.05.18.
  京の御霊神社は雅やか

瓔珞 (ようらく)
神輿の屋根の四面の軒下に吊るす飾り金具。

元来は、インドの貴族が宝石や金銀などを紐に通して作った頭や首や胸にかけた装身具です。
それが仏像の胸飾りにもなり、薬師寺の聖観音像のものなど見応えのあるものが多い。 また、仏像の天蓋や僧侶が読経する場所の上に下げた人天蓋、また、 建築物の破風などに付ける垂飾をいう。

神輿は渡御のおり大変激しい魂振り等を行うために、高価で貴重な瓔珞を損傷させぬために、 ほとんどの神輿では瓔珞を付けての渡御をしない。

千貫神輿の三崎稲荷、烏森神社、神田明神の神田市場、五条天神社、鳥越神社等では、 あえて瓔珞を付け、2〜300名の担ぎ手達の「わっしょい・わっしょい」の掛け声と共に、 「シャンシャン・シャンシャン」と瓔珞を鳴らして渡御する。 四面の瓔珞が波打ちまさに豪華絢爛、これぞお江戸の神輿!の感がする。

波除稲荷神社の葦簀張りお神酒所。08.06.07. 葦簀 (よしず)
葦・蘆・(アシの音が「悪(あ)し」に通じるのを忌み嫌い「善し」に因んでいう)
葦(イネ科の多年草)の茎を編んで作った簀。日除けなどに用いる。よしすだれ。葦簀張り。
最近屋外に造るお神酒所などでは、葦簀張りではなく、 ビニールシートで覆うテント張りが多くなり祭りの風情がなくなりつつある。

依代 (よりしろ)
神霊が招き寄せられて乗り移るもの。
神霊が降臨して、その意志を伝えるためには、憑依(ひょうい=よりすがる・のりうつる) 体を必要とするとの信仰に基ずく。

山、岩石、樹木、岩石、御幣、動物、人形などの有体物で、これを神霊の代わりとして祭る。 かたしろ。

素盞雄神社天王祭の境内の夜店。08.06.07.




夜店 (よみせ)
夜店(露店)は神社のお祭りや由緒御縁のある日に神社の参道や周辺をにぎあわせるために出店されます。 その様な事から露店のことを縁日といいます。

露店: 道端や神社の境内など、露天に物品を並べて商うみせ。
縁日: 特別の縁があるとして祭典・供養を行う日。
この日に参詣すると大きな功徳があるとされる。
     毎月5日は水天宮。  8日は薬師。  18日は観音。
     25日は天満宮。  28日は不動尊を縁日とされる。

参道のお茶やさんや土産やさんなどは、 それが固定化され常時出店するかたちになっ たものと考えられます。

    お江戸八百八町: 与力と同心は合わせて、たったの290名

江戸の町方人口は50万人、これに対して役人は極端に少なかった。
町の司法、行政、立法、警察、消防などの最高責任者は北町奉行と南町奉行の二人で、 その下の司法、行政を担当する与力、同心合わせて290人が職務に当たった。
しかも北町・南町の月交代なので、実際はその半分の人員で担当した。

町奉行は老中支配で、旗本の中から選任されたが、重要な役目なので禄高(三千石格) に関わらず優秀な人材が抜擢された。
与力は各奉行所に25騎 (与力は騎馬を許されたので何騎と数える) 俸禄は二百石だが、大名屋敷から内々の金が入った。
同心は各奉行所にたったの120人。俸禄は三十俵二人扶持だが、町家から相当の金品をもらっていた。
両奉行所には吉原、深川などの遊所から、私娼を取り締まってもらう礼に、毎月百七十両の献金があり、 これが岡っ引き以下に給金として流用された。

同心は与力の部下として働くのが普通だが、各町奉行直属の治安担当の同心は、 定町廻り6人(自身番廻り)、臨時廻り6人(見落としがちな場所を廻る)、 隠密廻り1人(危険な場所への立ち廻り)の両奉行所で総勢がたったの26人の三廻りです。
江戸の治安を担当する与力・同心を補ったのが、 行政の実務を担当するのが自治組織の町年寄りと町名主(まちなぬし)である。
自治組織トップの「町年寄り」は樽屋、奈良屋、喜多村の三家が世襲で勤め、実務担当は「町名主」の264人 (享保七年・1722の町名主組合による)の町役人で、 その下に長屋の管理者の大家などが江戸の平和を守ったのです。

墨田稲荷神社の例祭の渡御行列。08.06.15.




例祭 (れいさい)
神社で毎年行われる祭祀のうち、最も重要とされるもののことである。

例祭は年一回、多くは祭神や神社に特別の由緒のある日に行われる。 例えば人物神を祀る神社ではその人物の誕生日や命日としていることが多い。 特に由緒のある日のない場合は、春祭りや秋祭りをもって例祭としている。

例祭が行われる日は毎年一定で、みだりに変えることはできないものとされる。 第二次大戦以降も、神社本庁被包括の神社については、 例祭日を変更する場合は神社本庁の承認を受ける必要がある。

例祭は祭祀の分類の中で「大祭(たいさい)」に分類されることから、例祭のことを例大祭 (れいたいさい)と呼ぶことがある。ただし、これは俗称であり、正式なものではない (例祭の名称として「○○神社例大祭」としていることはある)。 正式には、大祭式例祭(たいさいしきれいさい)とする。

日枝神社山王祭。08.06.13. 輦輿 (れんよ)=輦車(れんしゃ) 参照:鳳輦
輦車(手ぐるま。腰車)と輿(こし)。

天子、貴人の乗物。鳳輦・葱花輦(そうかれん)とも言う。
人に代わって牛が引くのが牛車です。

露店 (ろてん)=夜店参照
露店: 道端や神社の境内など、露天に物品を並べて商うみせ。

片瀬海中渡御。08.01.20. 露盤 (ろばん)
神輿の屋根の中央上部にある四角い台。この上に擬宝珠として、鳳凰や大鳥、葱花を露盤の中央に取り付ける。 また駒札を露盤の前部に取り付けたりもする。
露盤は彩色を施す場合が多く、白木のまま使用されている所は少数で、 地域によっては錺金具で製作された露盤もあります。

輪飾り (わかざり)
藁を輪の形に編み、数本の藁を垂らした正月の飾り物。裏白・紙四手(しで)などを添える。輪注連(わじめ) 注連縄。

わっしょい担ぎ =江戸前担ぎ
神輿を和して担ぐこと。このときに掛け声を「わっしょい、わっしょい」と掛け合い、 神輿を担ぐことからつけられた。

東京の下町の神輿の掛け声は、「セイヤ」や「オイヤ」ではなく、 「わっしょい」の掛け声で、担ぎ手はチョイチョイと小幅に足を運び神輿を上下に激しく振らない、 江戸前担ぎで行われる。特に富岡八幡宮の宮神輿や町会神輿は全て江戸前担ぎです。

わっしょいの語源は定かではないが、労働作業時に重たいものを大勢で担ぐときに、 自然発生的に掛け声としてできたと言われている。

烏森神社の湯島白梅太鼓。08.05.05.

和太鼓 (わだいこ)=大太鼓(大太鼓)参照。
和太鼓は、打楽器のひとつ。日本の太鼓の総称。
皮の張り方によって締太鼓、鋲打太鼓(桶太鼓、宮太鼓)がある。

祭礼、歌舞伎、能、神社仏閣における儀式等に用いられ、木でできた胴に皮を張り、 それを振動させて音を出すものである。

撥(バチ)で叩くものを太鼓と呼び、手で叩くものは鼓(つづみ=胴にくびれがあるもの)と呼ばれる。

鳥越神社三桂氏子達の草鞋衣装。08.06.08.


草鞋 (わらじ)
ワラグツの転ワランジの約から称される。
藁(わら)で足形に編み、 爪先にある二本の藁緒(わらお)を左右の縁にある乳(ち)に通し、 足に結びつける履物。わらんず。わらんじ。

稲わらのほか麻、フジづるでも作られ、古くから旅行用などに用いられた。 草履(ぞうり)に踵(かかと)をとめる輪をつけただけの「ごんずわらじ}や草履と草鞋の中間の 「ぞうりわらじ」、牛馬用の馬わらじなどもある。

写真のように地下足袋に草鞋を履くのは、丈夫で軽くて動きやすく滑りにくいとか。

品川神社千貫大神輿。06.06.04. 蕨手 (わらびて)
神輿の屋根の四隅に突き出た曲線の飾り金具。
神輿以外にも灯籠の屋根の上、高欄などにも見られる。

シダの早蕨(さわらび=早春、地中の根茎からこぶし状に巻いた出てきた新芽) に似ていることから名つけられた。
右の写真は品川神社の明治17年建造の千貫神輿、お江戸の神輿の原型に近い。


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