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お江戸八百八町: 屋台と外食
江戸時代初期、江戸の町には外食の飲食店がなく、飲食店が現れ始めたのは明暦の大火(1657年)以降といわれています。
各地から多くの人々が江戸へ移住し、その多くが単身の男性であったこと、
また参勤交代により妻子を故郷に残して江戸へやってくる武士が多いこともあって、外食の需要が強くありました。
そうした人々に食べ物を提供するために、様々な食べ物屋が現れました。
江時代初期には「飯屋」 (めし屋)が登場し、例えば井原西鶴の「西鶴置土産」によれば、
明暦3年(1657)に浅草に出店した飯屋の奈良茶(茶飯、豆腐汁、煮しめ、煮豆のセットメニュー)は人気を博したという。
貞享3年(1686)には、蕎麦切りその他火を持ち歩く商売を禁止するお触れが出されている。
中期から後期にはそば屋の二八そばが人気となり、留守居茶屋(大名がいない間、
大名屋敷を預かる留守居役を相手とした高級茶屋で、会席料理を出していた)ができ、
明和8 年(1771)に、深川洲崎で営業を始めた升屋は、料亭の元祖といわれる。
屋台店では、てんぷら屋が文献で紹介されたのは、寛延元年(1748)で屋台ではこの店が一番多かった。
握り寿司は文政年間(1818〜1830)に花屋与兵衛が考案し、稲荷寿司も売られ、
惣菜を食べさせる、居酒屋を兼ねた煮売り屋、一膳飯屋などもおおいに繁盛した。
単身男性の多かった江戸では、外食の店や屋台は必要不可欠であったのです。 |