歴史の 浪漫街道 お江戸の神輿 神輿雑学事典  「す・せ・そ項目」の素盞鳴尊、随身門や千貫神輿など
伝承と伝統の民族文化遺産


祭りだ!神輿だ! 神輿事典


    す・せ・そ項目

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揉みながら羽村水中渡御。08.04.13. 水中渡御 (すいちゅうとぎょ)
神社や神輿にとっては、祭礼は重大な行事であり、洗い清める一種の禊の行為です。

また、夏祭りの名残とも言われて、夏の季節以外にも川や海に入る神輿もあります。

府中本村神社の山車の深堀彫刻の八岐大蛇と素盞鳴尊。08.07.20.
 府中本村神社の素盞鳴尊





素盞鳴尊 (すさのおのみこと)
日本神話で国生み神話でよく知られている伊弉諾尊(いざなきのみこと)が、妻である伊弉冉尊(いざなみのみこと) に会うために、黄泉の国に行かれたのち、日向の橘の小門の阿波岐原で禊をなされた際に生まれた素弉鳴尊(すさのおのみこと) は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟。

凶暴で、天の岩屋戸の事件(=天照大神が弟の暴状に怒り天の岩屋に籠った)を起こした結果、 高天原(たかまのはら=天つ神がいたという天上の国)から追放され、 出雲国で八岐大蛇(やまたのおろち)を斬って天叢雲(あまのむらくも)剣を得、天照大神に献じた。
また新羅(しらぎ)に渡って、船材の樹木を持ち帰り、植林の道を教えたという。

天照大神、月読命(つきよみのみこと)とともに三貴子といわれる神々のうちの一人で、 日本神話の主役として重要な役割をになう神様です。

   『日本書紀』では「素盞嗚尊」「素戔嗚尊」
   『古事記』では「建速須佐之男命」(タケハヤスサノオノミコト)
   「須佐之男命」「須佐乃袁尊」と表記する。

これは日本書紀、古事記から由来する名前の違いでどちらも同一人物を指している。 祭神の牛頭天王(ゴズテンノウ)は「スサノオノミコト」とも言われています。

瑞鳥 (ずいちょう)
めでたい鳥。鶴や鳳凰。

朱色に染まる神田明神の隋神門。07.05.12. 随身門 (ずいしんもん)
神社で随身姿の二神の像を左右に安置する門。

この二神は闇神・門守の神(かどもりのかみ)あるいは看督長(かどのおき)ともいい、 俗に矢大神(矢大臣)左大神(左大臣)という。 本殿側から見て右側が右大臣、左側が左大臣です。随身門は仏寺の仁王門にならったものという。

仁王門は仏寺の守護神として2体の金剛力士の阿吽の像を安置する二階建て楼門。

nedu-sukasibe.jpg(5572 byte) 透塀 (すかしべい)
社殿周囲を囲む塀。名称の由来は格子部より向こう側が見えることによる。

根津神社の透塀は国指定重用文化財です。

小平神明宮。'13.04.28. 鈴緒 (すずお)
神社にぶら下がる鈴を鳴らす紐あるいは綱を鈴緒と言い、参拝時に神社の拝殿で振り鳴らして用いられる。 鈴祓いの祓い清めに使われます。

一説には寺の鰐口(わにぐち=仏堂の正面軒先に吊り下げられた金属製仏具の一種)から転じたとも。

摂社 (せっしゃ)
本社に付属し本社に縁故の深い神をまつった神社の称。

本社と末社との間に位し、 本社の境内にあるものと境外にあるものとがある。

富岡八幡宮の千貫神輿の「二之宮」。06.08.13.





千貫神輿 (せんかんみこし)
神輿とは神が乗る輿であり、神輿の重量を量ることは、神そのものを量ることとなり不作法になり、 神輿の大きさ重さを台座の寸法で表示する。
千貫神輿とは大きく重たいことを表し、おおむね台座4尺以上で重さは1トン以上の神輿をさす。

千貫神輿の代表的な富岡八幡宮の
「一之宮」深川に屋敷があった紀伊国屋文左衛門が元禄時代に総金張りの八幡造り神明造り 春日造りの3基の神輿を奉納したのが深川の自慢であったが関東大震災で焼失。 平成3年に68年ぶりに復活した。台座:5尺 高さ:14尺5寸(4m)重量:4.5トン 屋根延金地塗神輿で 鳳凰の目などにダイヤモンドやルビーなど多数で装飾されている。 日本一重い大神輿ですが重すぎ担げないため、渡御はしません。

「二之宮」本社神輿が重すぎ担げないため実用的な神輿として平成9年完成。 台座:4.5尺 高さ:10尺8寸(3.3m)重量:2トン 屋根延金地塗神輿。 氏子といえども白印半纏着用で無いと担げない伝統です。

富岡八幡宮稲荷神社の千社札。08.07.16.

千社札 (せんしゃふだ・せんじゃふだ)
江戸中期に始まったもので、自分の名前や屋号・睦名などを書いた札。

銅板・漆塗り板のこともあったが紙が主流で、 札が剥がれ落ちるまで自分の代わりに御本尊と縁結びとなり、 関東の神社・仏閣へ参拝し山門や社堂に張った。

千ヵ所を参拝すると大きな願いが叶うとされたことから「千社札」というとの説がある。
多くの神社では、最近は景観や美観上から貼り付けを禁止にしている。

    お江戸八百八町: 銭湯 ( せんとう=湯屋 )
当時の庶民はたらいの行水、湯浴みであった。 湯屋は家康入府の翌年(1591)には早くも、銭甕橋(ぜにがめはし)あたりで湯をたて、 入浴させて料金が永楽銭一文だった。
湯屋(銭湯)の浴料は天保改革以降、大人八文、子供六文、幼児四文と定められていた。 かけそば一杯十六文の時代で、文久三年(1863)には、風呂代は大人十二文に値上げされている。
当時の浴槽は薄暗く湯気がこもり、見通し悪く、「田舎者でござい」(冷えた体で、湯を冷まし、 体触れても田舎者で、お許しを)と一声かけて湯船に入った。 江戸で混浴が禁止されたのは、寛政三年(1791)であったが完全には守られなかった。

雑色 (ぞうしき)
鎌倉・室町時代の下級役人、雑役・走使いの無位の職、雑役に従う召使いなど。

総社 (そうしゃ)
その地域の数社の祭神を一か所に総合して勧請した神社。
また、平安末・鎌倉時代、国司が一の宮・二の宮など国内の有力社を国府の近傍に合祀した神社。

総代 (そうだい)
氏子を代表する役員。仲間全体の代表者。

同じ氏神を祭る人々を「氏子中」、「氏子同」といい、 その代表者である氏子総代を中心に神事や祭事が担われている。

鮫洲八幡惣町大神輿。'09.08.16.


惣町 (そうちょう)
惣町とは中世末から近世の都市の自治・支配の最上位の単位で、織田信長が町衆支配のために導入制度化して、 徳川家康が江戸市中に導入した惣町→町組→町という組織です。

関東では神社の宮神輿といっても元はその村全体で購入した神輿で、本来ならば「惣町の神輿」であり、 その後神社境内に保管されていたので、いつしか「宮神輿」となったようです。 惣町神輿とは、神社神輿(宮神輿)なのです。
現在でも惣町神輿として担がれるのは、品川神社の本社惣町神輿、 鮫洲八幡神社の文化10年建造の惣町大神輿が渡御する。

京都八坂神社の粽。08.05.31.
京都祇園祭蘇民将来の粽

蘇民将来 (そみんしょうらい)
護符の一種で、六角や八角の塔状木片に「大福長者蘇民将来子孫人也」と書いたもので、 京都の祇園、上田の国分寺、新発田の天王寺等で発行する。水沢市の蘇民祭は裸祭りで護符を取り合うことで有名。

疫病神(又は牛頭(ごず)天王、武塔神、素戔鳴(すさのお)尊)が旅に飢え、宿をこうたが、 金持ちの巨旦(こたん)将来は拒絶、貧しい弟の蘇民将来は茅の床に粟の飯で歓待した。 神はお礼に茅の輪と護符を残し、これを持つ者は無病息災と告げたという話に由来する。  備後風土記に茅の輪を腰に着けて疫病を免れた説話を伝える。

素盞雄神社のHPより。

    お江戸八百八町: 蘇民将来
蘇民将来の伝説を要約すると、あるひと (素盞嗚命などの神様) が旅の途中、蘇民将来・ 巨旦将来の兄弟の家に一夜の宿を請うたところ裕福な巨旦将来は断り、貧乏な蘇民将来は厚くもてなしました。 その後巨旦将来の家は災厄によって滅び、蘇民将来の子孫は幸運に恵まれ栄えたという事です。 そのため、 家の戸口などに 「蘇民将来子孫」 などと書かれたお札を貼っておくと、 災厄から逃れられるという信仰がひろまりました。 また、茅輪を巻く人を蘇民将来の子孫の印として、災厄から守ってくれると言い残していったともいわれ、 茅輪くぐりの習慣も生まれました。



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