歴史の 浪漫街道 お江戸の神輿 神輿事典  「み・む・め・も項目」の巫女や神輿屋、宮出し宮入、宮大工など
伝承と伝統の民族文化遺産


祭りだ!神輿だ! 神輿事典


    み・む・め・も項目

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御神楽 (みかぐら)
「御神楽」 宮中で、夜、庭燎(にわび)をたいて執り行う宗教儀式で、伴奏に和琴・神楽笛・ 笏拍子などの日本古来の楽器に篳篥(ひちりき=笙)が用いられる。

民間で行われるのは 「里神楽」で、日本の民族芸能の一種で 「おおかぐら」とよばれる。 さらに大きく巫女神楽・出雲流神楽・伊勢流神楽・獅子神楽に分類される。

芝大神宮のだらだら祭り行列の巫女。07.09.16. 巫女 (みこ)・神子
広くは神に仕える女性の意。

神社に属し補助的な神職として神楽、祈祷などをするものと、 神がかり状態で神霊、死霊、生霊の託宣を伝える口寄せ(神託)とがある。
未婚の少女が多い。かんなぎ。

神社に奉仕してはいるが、舞姫と同じく正式には神職ではない。

富岡八幡宮の千貫神輿の「二之宮」。06.08.13.
深川富岡八幡宮の千貫神輿
大阪・誉田八幡宮の最古の神輿、鎌倉時代。
 大阪誉田八幡宮のHPより
 鎌倉時代建造最古の神輿




神輿 (みこし)
神輿とは神幸式に神霊が乗る輿のことです。

貴人の乗物である御輿に由来する本神輿のほか、酒樽をかつぐ樽神輿や扇神輿、芋茎(ずいき) 神輿などがある。
芋茎や樽は神饌、扇は神の依代(よりしろ)に由来する。

本神輿は普通木製黒漆塗り金具付きで、四角形、六角形、八角形があり、屋上に鳳凰や葱花を飾り、 台座に二本の担ぎ棒を貫く。

奈良時代の天平20年(西暦 749)東大寺に宇佐八幡宮を迎えた紫の輦輿(れんよ=貴人の乗物) が神輿の記録の初見で、それ以前の神霊の渡御は人馬によったが、平安中期に 御霊(ごりょう)信仰=(疫病や天災は、非業の死を遂げた人物の祟りとして恐れ、 霊を鎮めることによって平穏を回復しようとする信仰) とともに神輿が広まり、 神幸式は祭りの重要部分となった。

現存する最古の神輿は、鎌倉時代初期に造られた誉田八幡宮(大阪府羽曳野市誉田3丁目)所蔵の神輿といわれている。

神幸式には二基以上の神輿の喧嘩祭り、神輿を川や海に入れる浜降(はまおり)祭、神輿洗い、 神輿を振り立てる神輿振りなどの習俗がある。

神輿の主な各部。
大鳥。屋根紋。野筋。吹き返し。唐破風。飾り紐。紐房・飾り房。瓔珞。胴。台座・台輪。 担ぎ棒・華棒。

神輿建造工程 (みこしけんぞうこうてい)
神輿建造には木地師・塗師・鋳物師・錺(かざり)師・鍍金師・彫り師・ 彩色師等の専門職人がそれぞれの部位を製作して組み立てる。

○木地師職人が神輿の木地本体を製作します。
○屋根などの漆塗布部位は塗師のもとへ運び、鋳物師に鋳物の製作を、 錺(かざり)
 職人に錺り金物の製作をそれぞれ依頼する。
○彫刻に用いる木地を彫り師のもとへ依頼する。
○出来上がった、鋳物・錺(かざり)金物を鍍金(ときん:メッキの意)師のもとへ運び、
 鍍金掛けを施す。
○鍍金を掛けた鋳物・金物、彫り師による彫刻を本体に取り付けます。
○漆を塗った屋根を本体に設置します。
○全体のバランス・柱の締まり具合などを調節して完成させる。

地蒔・・・金粉や銀粉などを蒔いて装飾する蒔絵の技法。
梨地粉・・・ 本蒔絵に使用される非常に細かい金属粉である丸粉をつぶした 平目粉をさらに圧延して,薄く細かくしたもの。
梨地漆・・・ 油を加えない半透明の透き漆のこと、強度・透明度が高い高級漆。
総漆塗りの神輿・・深い味わいの漆黒と鮮やかな朱漆が絶妙な美しさを織り成す総漆塗りの神輿です。 漆は屋根・鳥居・井垣・階段・扉・台輪に満遍なく施され、 斗組みには豪華な金箔があしらっています。

富岡八幡の神輿庫。08.07.16.
富岡八幡宮の神輿庫
阿伎留神社。'08.09.29.
阿伎留神社の神輿庫
神輿庫 (みこしこ)
神輿を納める庫。通常は神社境内に設置する。

神輿舎(みこしやどり=神輿宿)=御旅所=祭礼などに際して神輿を安置するところ。

写真は富岡八幡宮の千貫神輿である一之宮と二之宮を納めているガラス張り神輿庫。



写真下段は鬱蒼とした境内に佇む風情感じる阿伎留神社の格子戸の神輿庫。

狭い境内の神社や、神職不在の神社の多くは、祭事用具庫と兼用の倉庫を神輿庫として使用している。

神田明神の市場神輿が押し上げの鼓舞をする。07.05.13.
神田明神の市場神輿

神輿乗り (みこしのり)
浅草の三社祭りの宮出しでは、もともと氏子町会代表の頭等が担ぎ手達を鼓舞するため、 神社の御払いを受け、祭り衣装を正し担ぎ棒に跨って乗っていた。

H19年も神社側から事故多発で異例の「神輿乗り禁止令」がだされたが、 禁止を破って神輿乗りを行い、残念ながらH20年度は本社神輿3基の宮出しが中止です。

都心部のドーナツ化現象で氏子の担ぎ手衆が不足して神輿好きの人たちで作る「神輿同好会」 に力を借りた結果、 そこに紛れ込んだ一部の輩たちが神輿乗りを行っているのです。 祭のルールは地元がきめる、担ぎ手は和となってそれを守る。これぞ本当の神輿好き人です。

悠久の時を経て来た伝統文化、民族文化を絶やさずに守ろうとの配慮を願うのみです。

神輿屋 (みこしや)
神輿づくりには、木工、漆工、金工など様々な技術技法が伝承され、 神輿芸術と言われこの技術技法が駆使される。

お江戸の神輿の主な神輿屋には、
行徳・浅子周慶:  千葉県市川市本行徳35−7。
        室町末期創業の老舗であったが残念ながら平成19年に廃業。
行徳・後藤直光:  千葉県市川市  (名神輿多く製作するも廃業: 時期不明)
行徳・中台祐信: (中台神輿):創業 江戸末期  千葉県市川市本塩1-3
浅草・宮本重義: (宮本卯之助商店) :創業 文久元年(1861)
        東京都台東区浅草6丁目1ー15。
神田・宮惣:  (村田惣三郎) :東京都千代田区神田黒門町。
浅草・岡田屋布施: 創業天保6年(1835) :東京都台東区雷門1-16-5。
八丁堀・秋山三五郎: 創業江戸末期  :東京都中央区八丁堀。
元浅草・南部屋五郎右ヱ門: 創業元禄二年(1689)、現13代目で一番古い太鼓屋。

素盞雄神社の天王祭は荒々しく勇壮な神輿振り。08.06.07.
素盞雄神社の天王祭
神輿振り (みこしふり)   参照:  素盞雄神社の天王祭  千住本氷川神社
担ぎ棒二本(二天棒)で神輿を地面すれすれまで左右に激しく倒しこむこと。

素盞雄神社の天王祭では、祭神の須佐之男命の荒々しさ凶暴さ、 出雲国で八岐大蛇(やまたのおろち)を斬って武伝をあげた等によるところから来ている。

輿に乗った神の威厳を高め、神のご加護をより多く得ようとする行為の担ぎかた。

神輿揉み (みこしもみ)
神輿の左右の担ぎ手達が交互に左右に押したり引いたりして、 押し合うようにして、神輿を持ち上げるように担ぐこと。

輿に乗った神の威厳を高め、神のご加護をより多く得ようとする行為の担ぎかた。

羽村八雲稲荷の羽村天王祭。08.04.13. 禊 (みそぎ)  参照:  羽村八雲天王祭
禊は水垢離(みずごり)ともいい、真水で身体を洗い清めることである。

禊には海水が最も効果があるといわれ、海水で行うのが本来の禊であったという。 また海水の代わりに塩を用いることもあった。相撲で土俵に塩を撒くのも塩による清めの一種であり、 祭りで水をかけるのも清めが目的である。

喜多見氷川神社の宮神輿に鯨幕で包つみ御霊入れを行う。07.10.14.
喜多見氷川の鯨幕
御嶽神社の幕を張り御魂還しの儀。08.05.08.
御嶽神社の御魂還し
御魂遷し (みたまうつし) 御魂還し (みたまかえし)
神輿には祭神が鎮座する室が神輿の胴部分の中に作られており、観音扉は施錠するように造られている。
「御魂遷し」 は氏子区域を渡御する時に、本殿から祭神を神輿に移すこと。

「御魂還し」 は渡御を終えて神輿が神社に戻り、祭神を神輿から本殿に還すこと。

御魂は人目に触れぬように、本殿で神職のみで執り行う大国魂神社や、祭典時に行うときは、 鯨幕で御魂を覆い隠すことを行う。
神輿渡御中も浅草三社祭りのように、神輿の胴を晒しで覆い隠すことも行われる。

なお、お仮屋、お神酒所においても、本殿から祭神の分霊お越しいただく御魂遷しと、 本殿にお帰りいただく御魂還しが行われる。

幣 (みてぐら)
古くは清音。「御手座」の意。(御手座代=みてぐらしろ。天皇に代り御幣を手に取り持つこと)

神に奉げる物の総称。ぬさ。御幣。幣帛。

蔵前神社の氏子役員による宮出し。07.06.03.
蔵前神社の宮出し
下谷神社の鳥居から千貫神輿の宮入。08.05.11
夕闇の下谷神社宮入

宮出し、宮入 (みやだし・みやいり)
宮とは、伊勢神宮その他特別の神を祀る神社の称。また一般の神社の総称です。

「宮出し」 例大祭に神輿渡御のために、本社神輿(宮神輿)を神社から出すことを宮出しと称して、 通常は早朝か午前中に執り行われる。
多くの神社では宮元や崇敬会、氏子役員が神輿を鳥居下三寸まで担ぎ出す。

「宮入り」 神輿が渡御を終えて神社に戻り境内に神輿を入れることを宮入という。 通常午後か夕暮れ時に行われる。

特に神社手前での宮入道中は、渡御区間の中でも一番激しく神輿もみや魂振りを繰り返す。 氏子担ぎ手は今現在、神輿を担げるのも神の御蔭、恩恵。 そして次回の例祭で無事お会いできること願っての行為とげされる。
有名なのは千貫神輿を数千人で担ぎ入れる鳥越神社の宮入道中です。

大国魂神社の暗闇祭のように、夕暮れに宮出しを行い神輿は御旅所で一泊して、 早朝に宮入する渡御もある。

宮大工 (みやだいく)
神社、寺院、宮殿の建築を専門とする大工。堂宮大工。

金剛組。創業 飛鳥時代第30代敏達天皇6年(西暦578年)ともっとも古い歴史を誇る。

聖徳太子の命を受けて、百済の国から三人の工匠が日本に招かれ、 四天王像をまつる寺院創建のために尽くした初代金剛重光。
607年(推古15年)、四天王寺に遅れること14年。 同じく聖徳太子の命により創建された法隆寺もまた、我が国が世界に誇る木造建築の最高峰の一つです。
これは、金剛重光とともに百済より渡来した二名の工匠たち(うち一名は山城の国に赴任) の手によるものと言われています。

四天王寺と法隆寺。日本建築を代表する二大歴史遺産を築いた工法は、 今もなお金剛組の「組み上げ工法」の中に脈々と生きています。
 現在は 四天王寺 正大工 第39代 金剛利隆です。

宮神輿 (みやみこし)
宮とは、伊勢神宮その他特別の神を祀る神社の称。一般の神社の称。

宮神輿とは一般の神社の神輿をさす。本社神輿の項参照。

第六天榊神社の氏子の宮元。06.06.04. 宮元 (みやもと)
氏子区域の中でも神社近くの町会で、神社に深くかかわり、 祭事を主体的に執り行う奉賛会で、神社にもっとも近い氏子集団。

明神 (みょうじん)
日本の神道の神の称号の一つ。豊臣秀吉の「豊国大明神」が有名。
「明神」とは、 神は仮の姿ではなく明らかな姿をもって現れているという意味である。 権現(ごんげん)は、「神が権(かり)に現れる」、また「仏が権(かり)に神の姿で現れる」という意味である。 徳川家康の「東照大権現」が有名である。

神は仏の信者を守護するという形で落ちついた(神仏習合)。これらが明神や権現と呼ばれ、信仰の対象となっている。

広辞苑では、「神を尊んでいう称号」「名神(みょうしん)の転」とあり、「名神」は「延喜式に定められた社格。 名神祭にあずかる神々で、官国幣を奉られる大社から、年代も古く由緒も正しく、崇敬の顕著な神々を選んだもの」とある。 つまり、古くから祀られた由緒正しい神や神社のことを、一般的に「明神様」と呼ぶのだそうだ。

無格社 (むかくしゃ)
旧制で、官国弊社・府県郷村社などの社格のない神社の称。 →社格。

    お江戸八百八町: 目明かし通称岡っ引き 参照:与力と同心
「目明かし」「御用聞き」「岡っ引き」は皆同じである。奉行所が彼等に与えた呼び名は小者(こもの) だったが、役割上の箔が付かず、上記の名称で呼ばれたが、世間では「岡っ引き」と呼んだ。
与力同心の配下で犯罪捜査や犯人逮捕を行うため、犯罪者を釈放して目明かしにした場合が多いが、 町人ながら幕府の御用を勤めるとなれば、つい虎の威を借り権威を振りかざす者もいた。 幕府も手を焼き、天和二年(1681) 正徳元年(1711) 享保二年(1717)と、しばしば彼等を使うことを禁じている。 しかし定町廻同心は僅か12名で、彼らの手を借りなければ困ったのも事実で、呼び名を変えては使っていたのです。

八丁堀(与力・同心の組屋敷)の与力には、同心が4〜5人つき、同心には岡っ引きが2〜3人つき、岡っ引きには4〜5人の手先がつく。 その手先は下っ引きを使っていた。
岡っ引きの給金は下女(年に三両)よりも低かったが、町家からの金品や南北奉行所への献金が、 岡っ引き以下への裏金として内々に流れていたのです。

    お江戸八百八町: 物見遊山
街道や宿駅制度が整備され、幕府の体制も安定した江戸中期以降に神社参詣や巡礼など、 信仰を名目とした物見遊山が文化文政時代(1804〜1830)に大ブームとなる。 理由は名所旧跡案内の印刷技術の普及により、書籍が大量に出回ったことによる。
人気のナンバーワンはお伊勢参りで二十年に一度の「遷宮」。 そして5〜60年に一度の「お陰参り」です。 伊勢神宮は日本の総氏神であり、一生に一度は参詣したいとの社会通念なり、奉公人や子女、 丁稚までもが主人や親に無断で参加するようになり、「抜け参り」と呼ばれた。
神社仏閣への参詣には、伊勢講、大山講。成田講。善光寺講などがある。
また霊山の参拝修行の「富士講」「御嶽講」など、 江戸庶民は「講」を母体に、全国津々浦々まで旅行するようになっていった。


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